110.馬痘ウイルス人工合成の論文は天然痘テロに悪用される

本連載104で、カナダ・アルバータ大学の分子生物学者のデイヴィッド・エヴァンスらが、馬痘ウイルスを人工合成したことを紹介した。その時点では、彼らの論文はサイエンス誌とネイチャーコミュニケーション誌から却下され、公表されていなかった。

この論文が2018年1月、オープンジャーナルのプロスワン(PLoS ONE)誌に掲載された。これは、天然痘によるバイオテロを危惧しているバイオセキュリティ専門家にとっては、青天の霹靂となった。

馬痘ウイルスはモンゴルで分離されただけで、ほかには分離例はない。モンゴルのウイルスは死滅したらしいが、そのゲノムの塩基配列が公開されている。その配列にしたがってゲノムDNAを構築しただけでは、感染性ウイルスにはならない。

ポックスウイルスのDNAが、感染性を発揮するには、ウイルス粒子に含まれている酵素の作用を必要とする。エヴァンスらは、ワクチニアウイルスのDNAの実験で、ウサギのポックスウイルスであるショープ線維腫ウイルスを感染させた細胞に導入した場合に高い効率でワクチニアウイルスDNAが再活性化されることを2003年に報告していた。そこで、合成したゲノムDNAをショープ線維腫ウイルス感染細胞に導入して、感染性のある馬痘ウイルスを回収したのである。

約21万2000塩基対の馬痘ウイルスのゲノムには、約18万8000塩基対の天然痘ウイルスの遺伝情報がほとんど含まれている。この論文に書かれた手順にしたがえば、感染性のある天然痘ウイルスを合成することもできると考えられる。バイオセキュリティ専門家は、この論文の掲載は最後の一線を越えたものと懸念を深めている。

この研究の動機について、エヴァンスらはバイオテロ対策として重要視されている天然痘ワクチンの副作用(彼らはtoxicity毒性という表現で、強い副作用を強調している)の問題を、ジェンナーの時代のウイルスを用いることで解決できるのではないかと述べている。しかし、論文で彼らが引用した副作用は、二〇〇一年の同時多発テロの直後に、バイオテロを恐れたブッシュ政権が、陸軍関係者62万人あまりに緊急接種した古典的ワクチンによるものである(霊長類フォーラム:人獣共通感染症142回)。また、ジェンナー時代のウイルスから弱毒ワクチンを開発するという発想には、科学的根拠が皆無である。

WHOの天然痘ワクチン分類では、天然痘根絶計画で用いられた、ウシで製造された古典的ワクチンが第1世代、培養細胞で製造したワクチンが第2世代、弱毒化され培養細胞で製造されたワクチンが第3世代とされている。エヴァンスらが問題にした副作用は第1世代ワクチンによるものだった。このワクチンはもはや用いられていない。

現在は、橋爪壮が開発したLC16m8ワクチン(本連載29)やドイツのMVAワクチンなど、第3世代ワクチンが少なくとも数億人分が世界各国で備蓄されている。LC16m8ワクチンは2002年から2005年にかけて国連平和維持軍として派遣された自衛隊員3500名あまりに接種されたが、安全性に関する問題は起きていない。

研究目的を正当化する根拠は見いだせない。しかし、プロスワン誌は掲載にあたり、デュアル・ユース(Dual Use:善悪いずれの目的にも利用できる)委員会で検討した結果、この論文はとくに天然痘ウイルスの作出を可能にするものではなく、ほかのウイルス(インフルエンザやポリオ)の合成に用いられた方法、試薬、知見などを用いたものであり、とくにワクチン改良に役立つことを考えると、掲載することによる利点はリスクを上回るとして、全員一致で掲載を容認したと述べている。

たしかに、ポリオウイルスの化学合成、ついでインフルエンザウイルスの合成の前例はある。しかし、馬痘ウイルスのゲノムはポリオウイルスの約30倍、インフルエンザウイルスの10倍あまりで、複雑な増殖様式のポックスウイルスのゲノムの構築、さらに感染性ウイルスの回収にはまったく異なる手順が必要である。

前例としてあげられたインフルエンザウイルスの合成は、高病原性鳥インフルエンザH5N1ウイルスにスペイン風邪の原因ウイルスの一部遺伝子を組み込んで哺乳類に飛沫感染するウイルスを作出したもので、この研究は、デュアル・ユースの視点から出された米国の国家科学諮問委員会の勧告を受けて、一部の手順が削除されてネイチャー誌に掲載された。

天然痘ウイルスのもたらすリスクはこのインフルエンザウイルスの場合に勝るとも劣らない。現代社会に天然痘ウイルスが持ち込まれた際の社会的混乱は、1972年にユーゴスラビアでメッカ巡礼から帰国した1人の感染者が持ち込んだ例からも明らかである(本連載47回)。種痘が中止されて半世紀近く経った現在、種痘による免疫を持つ人はほとんどいない。グローバル化した現代社会に天然痘ウイルスがもたらすリスクは計り知れない。

プロスワン誌のデュアル・ユース委員会では、どのような議論が行われたのだろうか?

 

参考文献

Noyce, R.S., Lederman, S. & Evans, D.H. Construction of an infectious horsepox virus vaccine from chemically synthesized DNA fragments. PLoS ONE 13(1): e0188453. https://doi. org/10.1371/journal.pone.01884538. 2018.

Yao, X.-D. & Evans, D.H.: High-frequency genetic recombination and reactivation of orthopoxviruses from DNA fragments transfected into leporipoxvirus-infected cells. J. Virol., 77,7281—7290, 2003.

WHO: Review of smallpox vaccines. Summary on first, second and third generation smallpox vaccines. 2013.
http://www.who.int/immunization/sage/meetings/2013/november/2_Smallpox_vaccine_review_updated_11_10_13.pdf

山内一也:近代医学の先駆者・ハンターとジェンナー。岩波書店、2015。