29.ワクチンによるウイルス感染症の根絶(2):天然痘の根絶

天然痘根絶計画にいたる道のり

ジェンナーは1796年に最初の種痘を行ったのち、1801年に発表した論文の最後で種痘を広めて行くことにより世界から天然痘が根絶されることを予言していました(1)。しかし、その予言が現実のものになるまでには、幾多の紆余曲折がありました。
天然痘に対する国際的取り組みは1926年、国連の前身である国際連盟の世界検疫会議で日本代表が天然痘をペスト、コレラ、黄熱と同様に届け出伝染病に指定するよう提案したのが最初でした。しかし、この提案に対してスイス代表が天然痘は世界中で発生しているという理由から反対し、結局折衷案として天然痘が流行している場合だけ届け出るということに落ち着いたのです(2)
第2次世界大戦後、1948年に国連のWHOが設立され、カナダのブロック・チザム(Brock Chisholm)が初代事務局長となりました。彼は1953年に天然痘根絶計画を提案したのですが、これは否決され代わりに1955年からマラリア対策が開始されました。
一方、ソ連はWHOが活動を開始した翌1949年にWHOを脱退したのですが、スターリン死後、フルシチョフが後を継いでまもなく1957年に復帰しました。そして、その翌1958年のWHO総会で、ソ連代表の保健省副大臣ヴィクトル・ジュダノフ(Victor Zhdanov)が天然痘根絶計画を提案したのです。ソ連のような広大な国で1936年までに排除に成功していたことがその主な理由でした。彼の提案には批判的な意見も多かったのですが、WHOに復帰したばかりのソ連の立場を考慮して、この提案は全会一致で受け入れられました(3)。それから具体的準備が始まり1963年に根絶計画が開始されたのです。それ以後の計画の進展は多くの本で紹介されていますので省略します。そして、1977年ソマリアでの患者が最後となり2年後の1979年に国際的評価委員会が根絶を確認し、1980年に根絶宣言が出されたのです。

ワクチニアウイルスの起源

ジェンナーの種痘は牛痘の病変部の膿を用いたものと言われています。しかし、現在の天然痘ワクチンに含まれているのは牛痘ウイルスではなく、ワクチニアウイルスです。牛痘ウイルスはリスなど齧歯類を自然宿主としていて、それがたまたま牛に感染しています。一方、ワクチニアウイルスの由来は謎とされています。昔は天然痘ウイルスと牛痘ウイルスの雑種ではないかという説も唱えられたことがありました。しかし、3つのウイルスの遺伝子を調べると、いずれもまったく別のものです。ワクチニアウイルス研究の第一人者であるデリック・バックスビイ(Derrick Baxby)は、ワクチニアウイルスの起源として、馬痘ウイルスを提唱しています(4)。ジェンナーは、牛痘の発生状況を観察した結果、馬のグリース(注:かかとの部分にできる炎症で脂肪がたまることがあるため、潤滑油を意味するグリースと呼ばれました。原因は馬痘ウイルス感染です)の手当をした人が手を洗わずに牛の乳をしぼったために牛がグリースに感染したのが牛痘と述べていました。さらに、馬のグリースに感染した人に天然痘を接種してみて免疫が出来ていることも証明しています(5)。ジェンナーが種痘に用いたのは、現在、牛痘と言われるものとは別のものだったと考えられるわけです。ワクチニアウイルスは馬痘ウイルスが天然痘ワクチンとして生き残ったものとみなされるというのがバックスビイの見解です。
馬痘ウイルス感染は19世紀にはしばしば発生していましたが、20世紀には稀に見られるだけになりました。しかし、1976年にモンゴルで馬痘ウイルスが分離され、その全遺伝子配列が2006年に明らかにされました(6)。その結果、馬痘ウイルスが、天然痘ウイルスや牛痘ウイルスとはかけ離れていて、ワクチニアウイルスにかなり近縁であることが分かりました。こうして、遺伝子の面からもワクチニアウイルスの起源として馬痘ウイルス説の可能性が支持されたのです。しかし、馬痘ウイルスが馬を自然宿主としたウイルスなのか、それともほかの動物からたまたま馬が感染しているのかは、いまだに分かりません。

牛を用いた天然痘ワクチンの製造

天然痘ワクチンは当初は痘苗と呼ばれていました。ワクチン製造用の牛の腹部の皮膚に種ウイルスを苗のように植えて、生じた発痘病変の膿からワクチンを調製していたためです。私が天然痘ワクチンに取り組んでいた1950年代終わりはまだ痘苗が正式名称でしたが、その後、痘瘡ワクチンに変更され、現在もこれが正式名称になっています。天然痘ワクチンは一般の呼び名です。
ジェンナーの種痘は、種痘を受けた人の腕から腕へと植え継がれていました。1800年頃ロンドンでは、毎週1回種痘の集まりが開かれ、接種を受けた人は8日目に種痘がついたかどうかを見せに来て、その際に病変の膿をほかの人に提供することが義務づけられていました。日本には1849年にオランダのモーニケ医師がバタビア(ジャカルタ)から痘苗を持ってきました。この痘苗を用いて九州大村藩の医師・長与俊達が孫の専斉たちに種痘を行ったのが最初でした。大村藩では城下の村から毎週交代で種痘を受けていない子供を3人ずつ出させる仕組みを作り長屋に泊まり込ませ子供から子供に種痘を植え継いでいました(7)図1
しかし、人から人に植え継いでいる間に種痘の効力が低下することが起きました。さらにもっと大きな問題として種痘により梅毒などが移る事態も起こりました。これらの問題を解決したのはイタリア、ナポリの医師ネグリ(Negri:狂犬病の封入体の名前で有名なネグリとは別人)です。彼は子牛で天然痘ワクチンを製造する方法を1842年に発表し、それから牛または羊での製造が普及していったのです。
日本で初めて種痘を受けた長与専斉は、明治政府の初代医務局長として明治5年(1872)、岩倉具視の欧米視察団に同行しオランダで初めて牛でのワクチン製造を見て、その器具を譲り受けて帰国しました。彼は明治6年(1873)に牛痘種継所を設置し、牛での天然痘ワクチンの製造を始めました(7)。この事業は北里柴三郎の伝染病研究所(伝研:最初は大日本私立衛生会付属で後に内務省付属)に引き継がれ、大正3年(1914)伝研が東大の付属(現・医科学研究所)になったために北里が北里研究所(北研)を設立してからは、ここでも天然痘ワクチンの製造が始められました。これが、私が1950年代に取り組んだ天然痘ワクチンのルーツです。

天然痘ワクチンからの雑菌の除去法

ワクチンの原材料は種ウイルスを接種してから4、5日後に腹部一面に出てくる発痘病変の膿を採取したもので、粗苗と呼ばれていました。これを乳剤にしたのが痘苗すなわち天然痘ワクチンです図2。牛の腹部は滅菌した大きな布 で覆われていましたが、牛は牛舎の中につながれていたため、当然のことながら細菌も多数増殖してきます。私が製造にかかわっていた当時、乳剤にした段階ではブドウ球菌だけで1 ml中に10億個も含まれていました。まさに細菌を培養していたようなものでした。ワクチンの成分であるワクチニアウイルスを殺さずに細菌だけを殺すのは、抗生物質を使えば簡単ですがワクチンに抗生物質が含まれることは許されていなかったため、不可能に近い難題でした。天然痘ワクチンの改良の歴史では雑菌除去法がきわめて重要な課題だったのです。
1850年英国のチェーン(Cheyne)はワクチンにグリセリンを添加することでワクチンの腐敗を防ぎ長く保存できることを見いだし、1891年には英国のコープマン(Copeman)が初めてグリセリンがある程度殺菌効果を示すことを明らかにしました(8)。明治29年(1896)伝研が大日本私立衛生会の付属研究所だった時代、北里柴三郎はフェノール添加がグリセリンよりも雑菌除去に有効なことを見つけて、助手の梅野信吉と連名で発表しました。これは種痘発明100年記念論文としてジェンナーに献呈されています(9)。この論文は日本語でしたが、ドイツなどでも知られていて日本の方法として利用されました。また北里は、当時結核にかかっている牛が多かったため、天然痘ワクチン製造用の牛の健康診断にツベルクリン反応を初めて応用しています。
1915年には、ロックフェラー研究所で野口英世が雄牛の睾丸内に接種することで雑菌除去が可能なことを発表しています(10)。これは50枚もの図が付けられた大論文で、彼の精力的な研究活動の一端がうかがえますが、この方法が実際に利用されることはありませんでした。
結局、グリセリンとフェノールの使用が標準的製造法として天然痘根絶の際まで用いられました。昭和48年の生物学的製剤基準の「痘そうワクチン」の項では、「粗苗に50%グリセリン液などを加え、0.5%以下のフェノールを加えることができる」と記載されています。
抗生物質の添加は認められていなかったため無菌にすることは困難でした。そこで、検定基準では1 mlあたり500個以下の菌数が条件になっていました。ただし、炭疽菌やクロストリジウム菌といった危険な菌が含まれていないことが要求されていました。なお、これらの条件はWHOの基準にしたがったものでした。
結局、天然痘根絶はこれら若干の改良と次に述べる凍結乾燥法が応用されたジェンナー・ワクチンで達成されたのです。

天然痘ワクチンの保存法の改良

牛で天然痘ワクチンが製造されるようになった当初、ワクチンを保存する方法はありませんでした。19世紀後半には医師の家に発痘病変が出た牛を連れて行って、その牛から採取したワクチンをその場で接種していました図3。19世紀後半から普及し始めたアイスボックスの利用、ついで20世紀に電気冷蔵庫が用いられるようになって、初めてワクチンが長期間保存できるようになりました。
一方、天然痘ワクチンを凍結乾燥して保存する方法の研究も始まりました。最初の試みは、1909年に行われたドライアイスで凍結し硫酸の蒸気の上で乾燥させるという、原始的な方法でした。1936年には釜山の朝鮮総督府獣疫血清製造所の赤沢笹雄がグリセリンに糖を添加すると保存効果が高まることを発表し(11)、その後保護剤としての糖が凍結乾燥ワクチンで用いられるようになりました。
本格的な乾燥天然痘ワクチンは1949年に米国ミシガン州立研究所で初めて製造されました。第2次世界大戦終結直後の1947年にニューヨークで天然痘の大きな流行が起こり1ヶ月間に600万人が緊急種痘を受ける事態がきっかけになったものです。このワクチンはペルーで野外実験が行われました。
天然痘根絶計画が取り上げられた1950年代後半に天然痘が残っていた地域はインドやアフリカなどの熱帯で、冷蔵保存、冷蔵輸送といったコールドチェーンが整備されていなかったため、ワクチンの耐熱性が大きな問題でした。1956年に英国リスター研究所のコリヤー(Collier, L.H.)がペプトンを保護剤とした凍結乾燥法により耐熱性の乾燥天然痘ワクチンを開発しました(12)。これがWHOの根絶計画で広く用いられることになったのです。
コリヤーの論文が出た頃、日本ではグルタミン酸ソーダの添加による耐熱性のBCGが開発されていました。そこで、結核が専門の柳沢謙予研副所長がリーダーになって北研、日本BCG研究所、予研の共同チームでグルタミン酸ソーダを用いた耐熱性乾燥天然痘ワクチンの開発研究が始められました。これは私が最初に取り組んだ研究でした。北研で私がグルタミン酸ソーダを加えた天然痘ワクチンを調製し、それをBCG研究所に持って行って、そこの鈴木正敏研究員(現・岐阜大学名誉教授)と徹夜で凍結乾燥を行い、北研に持ち帰っていろいろな温度で加熱して力価の変化を測定したのです。その結果、我々のワクチンは45Cで4ないし6ヶ月保存可能という高い耐熱性を示していました。この研究をもとに日本独自の乾燥天然痘ワクチンが製造されるようになり、昭和44年(1969)にはネパール政府の要請で50万人分の乾燥天然痘ワクチンが海外技術協力事業団(JICAの前身)を通じてカトマンズに送られました(5)

ウイルス学の進展にともなった天然痘ワクチンの開発

WHOの天然痘根絶計画が始まった頃、ワクチン製造の技術は動物から孵化鶏卵、さらに細胞培養へと進歩していました。それらの成果を天然痘ワクチンに応用する試みも当然のことながら行われていました。
まず、1930年代に孵化鶏卵でウイルス培養技術が生まれ、それがワクチン製造に応用されるようになりました。インフルエンザワクチンは今でも孵化鶏卵で製造されています。1958年には米国のキャバッソ(Cabasso, V.J.)が孵化鶏卵で製造した天然痘ワクチンを開発しています。しかし、これは有効性が低く実用化にはいたりませんでした(13)
1950年代には、ポリオワクチンの開発がきっかけになって、細胞培養によるワクチン製造の時代に入りました。天然痘ワクチンでも米国、ドイツ、日本で細胞培養によるワクチン開発が試みられました。そのうち、実用化されたのは千葉県血清研究所の橋爪壮博士のワクチンです。これは初代ウサギ腎臓細胞で分離した低温順化ウイルスを用いたもので、LC16m8ワクチンと名付けられました(14)。根絶計画に用いられたワクチンは副反応として種痘後脳炎を起こすことが問題になっていましたが、LC16m8ワクチンはサルの脳内への接種試験で神経病原性がそれまでの天然痘ワクチンよりも著しく低下していることが確認され、また人での試験で善感率、抗体産生の面でも当時広く用いられていた天然痘ワクチンよりもすぐれていることが証明された結果、1975年に製造が承認されました。これは世界で唯一承認された細胞培養ワクチンですが、この時期には天然痘根絶計画が進んでいて日本では1976年に種痘が中止されたため、実際に使用されることはありませんでした。現在はバイオテロなどに備えて、備蓄ワクチンとして保存されています。
結局、天然痘の根絶は牛や羊で製造した乾燥天然痘ワクチンで達成されたのです。

天然痘ワクチンの力価測定

ジェンナーは種痘を受けた人の腕で発痘の有無を調べて、ワクチンの効果を確認していました。
最初のワクチンの力価測定法は、1901年にパスツール研究所のカルメット(Calmette, A.)と ゲラン(Guerin, C.)が報告したウサギの皮膚にワクチンを接種して発痘の有無で調べる方法でした。なお、彼らの名前はBCG (Bacillus of Calmette and Guerin)に残されています。
その後、この方法にいくつかの改良が行われましたが基本的には彼らの方法にもとづいたものが長年にわたって用いられました(15)。私が北研に入った当時の検定基準もこの方法で、ウサギの背中一面の毛を抜いて皮膚を露出させ段階希釈したワクチンを皮内に接種していました。1936年にオーストラリアのバーネット(Burnet, F.M.)が孵化鶏卵の漿尿膜上のポックを数える方法を考案し、これが徐々に普及し、検定基準も途中からこれに代わりました図4。天然痘根絶のためのワクチンの検定もこの方法により行われました。

 

参考文献

1. 加藤四郎:ジェンナーの贈り物。菜根出版、1997.

2. Hopkins, D.R.: The Greatest Killer: Smallpox in History. University of Chicago Press, 1983.

3. Tucker, J.B.: Scourge. The once and future threat of smallpox. Atlantic Monthly Press, 2001.

4. Baxby, D.: Jenner’s Smallpox Vaccine: The Riddle of Vaccinia Virus and its Origin. Heinemann Education Press, 1981.

5. 添川正夫:日本痘苗史序説。近代出版、1987.

6. Tulman, E.R., Delhon, G., Afonso, C.L., Lu, Z., Zsak, L., Sandybaev, N.T., Kerembekova, U.Z., Zaitsev, V.L., Kutish, G.F., & Rock, D.L.: Genome of horsepox virus. J. Virol., 80, 9244-9258, 2006.

7.山内一也:エマージングウイルスの世紀。河出書房新社、1997.

8. MacNalty, A.S.: The prevention of smallpox: from Edward Jenner to Monckton Copeman. Med. Hist., 12: 1-18, 1968.

9. 北里柴三郎、梅野信吉:牛痘苗ニ就テノ研究.第1報告.細菌学雑誌,6号:391-401、1896.

10. Noguchi, H.: Pure cultivation of vaccine virus free from bacteria. J. Exp. Med., 21: 539-570, 1915.

11. Akasawa, S.: Ueber Zucker-Glyzerin-Kalblymphe (Z-G-Lymphe). Kitasato Arch. Exp. Med., 13, 118-126, 1936

12. Collier, L.H.: The development of a stable smallpox vaccine. J. Hyg., 53: 76-101, 1956.

13. Cabasso, V.J., Ruegsegger J.M., & Moore, I.F.: Further clinical studies with smallpox vaccine of chick-embryo origin. Amer. J. Hyg., 68: 251-257, 1958.

14. 橋爪壮:新しい弱毒痘苗株LC16m8株の基礎.臨床とウイルス, 3: 269-279, 1975.

15. 山内一也:痘苗の力価測定.北里メディカルニュース, 39: 1-12, 1957.