2.「動物バイオテクノロジーにおける動物福祉」

家畜を医薬品生産の場とする、いわゆる動物工場、ブタの臓器を人の臓器の代わりに利用する異種移植、それらの基盤技術としての体細胞クローン技術といった動物バイオテクノロジーの研究の進展に伴って、マウス、ラットのように初めから実験動物として育成されてきたものではなく、食用動物としての家畜が実験動物として用いられるようになってきた。
実験動物を用いる研究では動物福祉が生命倫理の観点から重要な課題とみなされており、日本でも医 学研究の領域では動物福祉対策が広く行われている。
これに対して、実験動物としての家畜に対する動物福祉の対策は日本では皆無に近い。
ここでは動物バイオテクノロジー、とくにトランスジェニック家畜に関わる動物福祉について私見を述べてみたい。

動物福祉の概念

動物福祉という言葉は医学研究分野では普及してきているが、畜産領域ではほとんど知られていない。まず、この用語の意味から解説してみる。
動物福祉は英語のanimal welfareの訳語である。
welfareは旅行などで「幸せを祈る」意味のfare wellの熟語で、fareは古語のfaran(ドイツ語のfahrenと同じで「行く」という意味である。すなわちwelfareは幸せに過ごしている状態をさす。なお、漢字の福と祉はいずれも幸いを意味する。
動物福祉は動物の幸せな状態ということになる。
歴史的に眺めると、医学研究の進展とともに残酷な動物実験への反対運動が19世紀にヨーロッパで起こり、1876年には英国で動物虐待防止法が成立した。
このきっかけになったのは、1863年にフランスのアルフォール獣医大学で行われた学生実習である。それは殺処分されるウマが麻酔されずに60もの外科的処置を受けたことである。
これがロンドンタイムズで報道され、動物虐待防止の世論が高まり、世界初の動物虐待防止法につながったのである。

これに対して、医学研究の人類への恩恵という観点にたって動物実験の必要性を唱える立場から、1950年代終わり頃に動物福祉の概念が確立してきた。
これは実験をはじめ、食用、狩猟などさまざまな形での動物の使用で得られる全体的な利益が、その行為によって動物が堪え忍ぶ苦痛を上回る場合には、動物への苦痛を最小限度にする配慮の上で動物の利用を認める立場である。
これに対して動物実験反対の立場からは動物権利が唱えられている。
これは人が利益のために一方的に動物を使用することは、動物の生存権を否定するものであって、原則的にまちがっているとするものである。

日本における動物福祉の枠組み

動物実験における動物福祉に関する日本の枠組みは、1974年に制定された「動物の保護および管理に関する法律」にもとづいて1980年に総理府が告示した「実験動物の飼養および保管に関する基準」に依存している。
しかし、これだけでは動物実験のあり方の基準としては不十分であるとする学術会議の勧告にもとづいて文部省が動物実験指針の原則を通達し、さらに実験動物の専門家集団として実験動物学会が動物実験指針のモデルを作成した。これを参考に1980年代終わりに文部省管轄の大学、研究所のほとんどが自主的に動物実験指針を作成し、それにしたがって動物福祉を前提とした動物実験を行う体制が作られた。
この枠組みは文部省管轄の研究機関の、ほとんどは医学分野における動物実験を対象としたものである。しかし、動物バイオテクノロジーの領域で動物福祉に関する枠組みは皆無といってよい。クローン研究に関連して1998年に文部省から「大学等におけるクローン研究について」、科学技術庁から「クローン技術に関する基本的考え方について」という中間報告がだされたが、いずれでも動物の場合には「動物の保護および管理に関する法律」に従えばよいと述べているだけで、福祉の観点からの見解は示されていない。
この文部省の報告に対して学術会議会長から提出された意見に、「動物福祉を充分に考慮すること」と述べられているのが、クローン動物に関して動物福祉が言及されている唯一の例である。

トランスジェニック家畜での問題点

動物バイオテクノロジーは動物工場および異種移植という医療への応用と、食用動物としての家畜の品質改良のふたつの目的で進展している。
ここでの重要な技術基盤はトランスジェニック家畜の作出である。動物工場は医薬品蛋白遺伝子を導入したトランスジェニック家畜の乳腺で、医薬品蛋白を発現させるものであり、すでにα1アンチトリプシンとアンチトロンビンIIIのふたつが英国と米国で臨床試験に入っている。
一方、異種移植は、超急性拒絶反応を回避させるために人の補体制御蛋白遺伝子を導入したブタをドナーとして使用するもので、このトランスジェニックブタは英国と米国で作出され、臨床試験の準備段階に入っている。
家畜の品質改良では繁殖や成長促進、泌乳量の増加、肉質の改善、飼料効率の改善を目的として遺伝子導入が試みられている。また、抗生物質などへの依存から脱却する手段としてインターフェロン関連遺伝子などの導入による抗病性の付与も検討されている。
これらに加えて体細胞クローニング技術を応用した疾患モデルとしての家畜の作出も提唱されている。これまで疾患モデルといえば、マウスやラットといった実験動物で作られてきているが、小型で寿命が短いマウスやラットでは長期間にわたる治療実験などへの利用には限界がある。
クローンヒツジを作出したロスリン研究所のWilmutは嚢胞性線維腫の治療実験のモデルとして、体細胞クローニング技術を利用したトランスジェニックヒツジの作出を提唱している。トランスジェニックマウスでは対処できなかった新しい領域がトランスジェニック家畜で始まろうとしているのである。
ところで、トランスジェニック家畜は欧米、日本いずれでも組換え体とみなされて組換えDNA実験指針で封じ込めが要求されているが、動物福祉の観点から、日本の指針を米英のものと比較してみると大きな違いがある。
文部省、科学技術庁いずれの実験指針でも組換え動物の封じ込めは逃亡防止と個体識別に依存している。しかし、現実にはトランスジェニックマウスの場合と同様に密閉された建物の中で、また時にはアイソレーターの中で飼育が要求されている場合も見受けられる。
一方、米国国立衛生研究所(NIH)の指針では、ウシ、ブタ、ヤギ、ヒツジ、ウマおよび家禽が指針の対象に含まれていることを明記し、動物種の特性に応じた封じ込めが必要であることを述べている。米英いずれでも具体的にはトランスジェニック家畜の飼育は2重の柵で囲うことが要求されており、ほかの飼育環境は通常の家畜の場合と同じである。

実験終了後の組換え動物の処理の点では、日本の指針は「組換え動物は不活化し処分すること」となっている。
動物の不活化という言葉は動物を微生物と同様の生命体とみなしていることを反映している。ちなみに米国では「動物が安楽死させられ、あるいは死亡した場合には、食品としての使用を権威ある連邦機関により特別に認定されない限り、人の食用としての使用をさけ、それを廃棄しなければならない」となっている。
なお、ここで注目されるのは、食用の点まで触れていることである。
動物福祉の観点にたつと、動物バイオテクノロジーでの対象動物は本来食用動物として育成されてきている家畜であることから、この問題は当然起きてくる。この点について英国の指針では「食用になる可能性のある組換え動物での作業の場合には新規食品および加工に関する諮問委員会に相談すること」となっている。トランスジェニック家畜の実験を行っていればいつかは起きてくる問題を先取りして指針に盛り込んでいるわけである。日本のようにあいまいな形で対処しているのとは大きな違いがある。

おわりに

動物福祉は動物実験における非人道的な動物の取り扱いに対する反省から欧米で生まれた道徳原理である。
動物実験は明治以後に日本に輸入されてきたものであり、動物福祉の概念が自発的に生まれる背景は日本には存在していなかった。
それまで我々日本人が接してきた動物は、家畜、愛玩動物、および野生動物であった。そして我々とそれら動物との関係は、欧米のような神ー人ー動物という垂直かつ非可逆的な上下関係でなく、円環的な同列関係であった。
欧米から輸入したマウス、ラットとは異なり、古くから我々の生活に深い関わり合いを持つ家畜を実験動物とする場合に、単純に欧米の動物観をあてはめてよいのか、それとも日本独自の動物観を反映させることは可能なのだろうか。

一方で、動物バイオテクノロジーのような科学技術の分野では、国際的に共通の道徳基盤も要求される。
OECDが1999年に発表した異種移植に関する報告書では、動物福祉に関する点が取り上げられ、それが守られない国に対しては差別が可能といった見解も示されている。
動物バイオテクノロジーでは技術の推進のみでなく動物福祉についての配慮も求められているのである。

 

農林水産技術研究ジャーナル23巻5号
p. 3-5(2000年5月)に掲載)