人獣共通感染症連続講座 第11回 エボラ出血熱(その4)

(7/25/95)

新刊書エボラ Ebola :A Documentary Novel of Its First Explosion by William T. Close, M.D.Published by Ballantine Books

先週、米国に出張していた際に本屋でEbolaというペーパーバックがホットゾーンと並べられているのを見つけました。 1976年のザイールでのエボラ出血熱の流行の際にザイールの首都キンシャサに居た医師の書いたドキュメンタリー小説です。 早速サンフランシスコからの帰りの飛行機の中で読み初め、斜め読みでしたが一通り読み終えましたので、ご紹介します。
著者のウイリアム・クローズ医師は外科医で1960年にザイールに行き、そこで16年間にわたって外科医として診療にたずさわりました。 コンゴ陸軍の主任医師でザイール大統領の主治医でもありました。 1976年のエボラ出血熱の流行の際には現地語が分かり、また医師としての過去の経験から国際医療チームのアドバイザーをつとめ、今年の流行の際にはCDC,ザイール政府、および関連国際機関の連絡調整役をつとめました。 現在は米国ワイオミングの僻地での医療にたずさわっています。

本書は1991年に「ヤンブク:エボラウイルス物語」というタイトルでフランダース語で出版され、今年の6月に英語版として出版されました。 この英語版の出版がザイールでの2回目の流行に偶然一致したことは悲しいことだとエピローグで著者は述べています。

本書は人間の悲劇という観点からまとめられています。 数多くの関係者とのインタービュー、個人的な手紙、日記、野外での診療記録などにもとづいて書かれたものです。 この悲劇にかかわった人達の言葉は、著者が想像して代弁しているものですが、人間味にあふれたもので、より一層、悲劇のすさまじさを感じさせてくれます。

物語は1976年8月、平和なオアシスであったヤンブク病院で起きた致命的な出血熱、後にエボラ出血熱と命名された病気が修道院と、その周辺地域を恐怖と死の世界へと変えていった様子を生々しく述べています。

主人公になっているのはシスター、ベロニカ(仮名?)です。 ベルギーが1884年にベルリン会議でコンゴを植民地とした時からの長い伝統の伝道活動を代表するひとりです。 1960年、ボードワン国王はコンゴの植民地支配を止め、その後の社会混乱の後に1965年モブツ将軍が無血クーデターで大統領となり、1971年に国名をザイールと変えました。 その数年後に熱病が発生したのです。 舞台はヤンブク病院でした。

最初の犠牲者は子供達にフランス語を教えていたマバロというザイール人です。 高熱にもかかわらず授業をつづけ、ついに死亡します。 現地の人に慕われていた彼の葬儀は盛大で2日間にわたって行われました。 マバロが死んだ翌日にヘルニアで入院していた夫を看病していた妻が発病しました。 そして同じ日に周辺に住む4人の女性が入院します。 マバロが埋葬された翌日には彼の妻が発病します。 患者の数は増え続け、数日後には17人になりました。 病院の床の拭き掃除をしていた作業員も死にました。

最初、マラリアと疑われたヤンブク病に抗マラリア薬は効き目がまったくありませんでした。 シスター達とひとりの医療助手だけの病院ではなすすべもありません。 妊娠8か月半の患者が出産後、2時間後に死亡します。 何人もの人の死の物語が展開されていきます。

シスターのひとりが発病し本国のベルギー、アントワープにある熱帯病研究所に送ることが真剣に相談されます。 そこでなら診断ができるだろうという期待からです。 しかし、結局彼女も死亡しました。 白人が死んだということは現地の人に白人もこの病気を防げないという衝撃を与えました。

ベルギーが設立したルーベイン大学の公衆衛生学部長で臨床病理の医師が現地に行ったのは病気が発生してから10日以上経っていました。 「ヤンブクには医師はいますか?」「いいえ、ただひとりの医療助手だけです」。 現地に着いたふたりの医師ができたことはチフスワクチンの接種でした。 ヤンブクの人達はチフスとは思えないと言うのですが、医師達はワクチン接種をしたというだけで現地の人に心理的な効果があるかもしれないと主張して接種を行いました。 フェルミナという名前のシスターがなぐさめに過ぎないワクチン接種を拒否しました。 議論の末、彼女はもう遅すぎる、私はすでに発熱していると言いました。

医師がサンプルを採取するために解剖を行いました。 その手伝いをしたヤンブクただひとりの医療助手が折れた肋骨で人さし指に怪我をしてしまいました。 なにか消毒薬はないかという医師の問に対して多分、古いヨード剤が1瓶ありますといって、それで処置します。 結局、この医療助手も発病して死亡しました。

シスター・フェルミナの容体は悪化してきました。 彼女をキンシャサに運び、そこからベルギー、アントワープの熱帯病研究所へ送ることが相談の結果、決まりました。 首都キンシャサに病気を拡げるのではないかといった議論もありましたがシスター・ルシーの病気の原因でもあるなぞの病気の診断がアントワープならつけられるだろうという期待の方が強かったのです。

無事にフェルミナを車でキンシャサへ送りとどけましたが、まもなく、無線の知らせで彼女はアントワープではなく、キンシャサの病院に入院させられたことを知ります。 アントワープで病気の原因をつきとめてもらおうという願いはだめでした。 4日後の朝、9月30日、ブリュッセルからの短波放送を聞いていたらレンブラントの絵が325万ドルで売れたというニュースの後、シスター・フェルミナがキンシャサの病院で死亡したというニュースがありました。 ベルギーのラジオでこのようなニュースを聞かされたのは、大変なショックでした。 ヤンブクのシスター達は完全に世界から隔絶されていたのです。 皆、死ぬ運命と覚悟するのです。

10月1日、医師2人がブリュッセルから現地に着きました。 ヘリコプターのパイロットはヤンブクへの着陸を拒否しましたが、結局着陸することに同意します。 しかし、彼らを降ろしてすぐに飛び立ってしまいました。 医師達はラウドスピーカーでシスター達に呼びかけました。 「あなた達を助けにきました。しかし、私たちから10メートル以上離れていてください」と。

10月3日、WHOはサンプルの検査を英国ポートン・ダウンの高度隔離実験室で行うことを決定しました (私は1977年にここを訪れました。広大な軍の基地の中の研究所です)。

この頃からの出来事はシスター・ベロニカの手紙の形で書かれています。 9月8日から10月6日までに死んだ人は男性99人、女性97人。私達が知っている死亡者総数は253人と。

パスツール研究所からの医師がキンシャサに到着しました。 シスター・フェルミナが入院し、死亡した病院での調査の結果、ひとりの看護婦メインガ(彼女だけは本名で登場します)がフェルミナの看護にあたった後、行方不明であることが分かりました。 間もなく戻ってきた彼女は発病していてフェルミナと同じ症状を示していました。 出血をとめるためにヘパリンをうつことになりました。 「私はすでに出血しています。ヘパリンをうったら血が全部出てしまいます」と反対しました。 これに対して「血管が血の塊でつまっているために出血しているのです。 その塊を溶かすための処置です」。 といったやりとりが述べられています。

彼女から分離されたウイルスがエボラウイルスの代表株メインガ株です。

現地で対策にあたっていたベルギー人医師のところにひとりの妊婦が運ばれてきました。 2日間難産が続いており、しかも熱病らしいと。 ランターンのもと、キシロカイン麻酔だけでやっと恥骨切開で子供を取り出しましたが、まったく息をしていません。 医師はマスクを取り、人工呼吸を数回繰り返した結果、子供は産声を上げました。 「先生、口のまわり全体に血がついています」とベロニカが言います。 ここで初めて医師は事態を悟ります。 どうしましょうというベロニカの問に彼は言います。 「コインはすでに投げられた。 熱病になるか、ならないかのいずれかだ」と。

11月4日のベロニカの手紙は次のように始まっています。 「アメリカとヨーロッパからの科学者が2週間前にキンシャサに到着しました。 彼らは明日帰る予定です。 流行は終わりました」。 「やっと私達は修道院の中の寝室にもどりました」。

回復した人から血清を集めることが始められました。 最初、彼らは拒否しましたが、十分に事情を説明し20ザイールのお金をあげるということで、進んで提供してくれるようになりました。 500mlのプラスチックバッグに血液を集め、遠心して血球をもどす方式です。 血清はキンシャサのフリーザーに送られています。

400ページにわたるこの物語はまさにヒューマンドキュメントです。 ホットゾーンがスリリングな展開をみせているのとはまったく違います。 医師でなければ書けなかった本です。

とても本書の全貌を伝えることはできませんが、印象に残った部分だけを拾いだしてみました。 そのうちに本書の日本語訳が出版されることを期待しています。

ホットゾーンでも感じたのですが、本当は原文を読まれた方が、著者の言葉が直接伝わって来ます。 6ドル99セントのペーパーバックです。 できれば原文を読まれることをおすすめします。