75. ヒト内在性レトロウイルス(HERV)は初期胚の多能性に必須の役割を果たしている

75. ヒト内在性レトロウイルス(HERV)は初期胚の多能性に必須の役割を果たしている

哺乳類の性染色体は雄がXY、雌がXXと異なる。Y染色体には推定78種類のタンパク質をコードする遺伝子が含まれ、主に睾丸など男性の徴候、受精、精子産生にかかわっている。一方、X染色体にはおおよそ2,000の遺伝子があって、そのうち性的特徴にかかわるものはごくわずかである。X染色体は雄には1個しかないが、雌には雄由来X染色体と雌由来X染色体があるため、両方がそのまま発現すると調節機能が衝突してしまう。この問題に対して、1959年大野乾(すすむ)は2個のX染色体は同一ではなく、一方が凝縮していて不活性状態になっていることを明らかにし、これがきっかけとなって、1961年には、ライアン(Mary Lyon)が雌のマウスの2個のX染色体のひとつが発生16日目頃に不活化されるという仮説を提唱した。1991年、X染色体不活化にはX染色体上のひとつの遺伝子が重要な役割を果たすことが見つかり、X inactive specific transcript を略してXist(イグジスト)遺伝子と命名された。しかし、Xist遺伝子がコードするタンパク質は見つからず、転写産物として約17,000のヌクレオチドを持つXist RNAが検出された。これは、コードするタンパク質が不明のノンコーディング(non-coding)RNA(nc RNA)であり、とくにサイズが大きいため長鎖ノンコーディングRNA (lnc*RNA)と呼ばれている。(1)

*lnc: long non-codingの略、リンクと発音

2001年にヒトゲノムの最初の概要版が発表されたが、タンパク質をコードするDNAはわずかに1-2%に過ぎず、52.5%の塩基配列は不明のものだった。2005年にゲノムDNAの約80%がRNAに転写されていることが明らかにされ、大量のncRNAが産生されていることが示唆された。ゲノムDNAからの転写産物の全体像(トランスクリプトーム)*の解析により、ゲノム中の不明の塩基配列のかなりの部分はncRNAをコードしていると考えられた。そして多数の短鎖ncRNAだけでなく、200から100,000以上のヌクレオチドのlncRNAが見つかってきた。

*ゲノム(geneにギリシア語の「すべて」を意味する接尾辞omeを付けたもの)にならって、一次転写産物(transcript)に対して作られた用語。

スタンフォード大学の幹細胞生物学・再生医学研究所のグループは、500万年ないし900万年前に霊長類に感染したと推定されるヒト内在性レトロウイルス(human embryonic retrovirus: HERV)のひとつ、HERV-Hに由来するlncRNAが子宮に着床する前の初期胚の発生の段階から、あらゆる細胞に分化しうる多能性の調節に働いていることを2015年11月にNature Geneticsに発表した(2)

彼らは2013年に、人の胚性幹(embryonic stem: ES)細胞で2000以上の新しいRNA配列を検出し、そのうち146がES細胞でのみ発現していることを見いだしていた。今回の報告では、もっとも高度に発現していた23の配列をHPAT (human pluripotency-associated transcript:人多能性関連転写産物)1-23と名付け、そのうち、HPAT2, HPAT3, HPAT5が人の胚盤胞の内部細胞塊でのみ発現していることを明らかにした。受精卵は2細胞、4細胞、8細胞と分裂したのち栄養外胚葉と内部細胞塊から成る胚盤胞が形成され、内部細胞塊が胎児に発育する多能性を持っているが、2細胞期の胚の1つの細胞でこれら3つの RNA配列の発現を止めると多能性を持つ内部細胞塊が形成されなくなった。さらに、HPAT5が3つのRNAのネットワークの中心になって多能性の獲得を調節していることが示唆された。

人の染色体には、シンシチン*という融合蛋白を介して、胎盤の形成を支えているレトロウイルスが存在しているが(3)、初期発生の段階で必須な役割を果たすレトロウイルスも組み込まれているのである。

*シンシチンの形成ではHERV-WとHERV-FRDが関与。

文献

1. Ryan, Frank: The Mysterious World of the Human Genome.
William Collins, 2015.

2. Durruthy-Durruthy, J. Sebastiano, V., Wossidlo, M. et al.: The primate-specific noncoding RNA HPAT5 regulates pluripotency during human preimplantation development and nuclear reprogramming. Nature Genetics, published online 23 November 2015; doi:10.1038/ng.3449.

3. 山内一也:ウイルスと地球生命。岩波書店、2012.