人獣共通感染症連続講座 第106回

新刊書「カミング・プレイグ:迫りくる病原体の恐怖」


感染症の分野で20世紀の最高傑作といわれるComing Plagueの訳書が11月10日にやっと出版されました。河出書房新社からです。私が監訳を受け持ち、帝京大学医学部講師・野中浩一および読売新聞社調査研究本部主任研究員・大西正夫(今年の春までは科学部デスク)両氏の共訳によるものです。タイトルをどうするか大分悩みましたが、最終的に英語名のカタカナ書きになりました。直訳すれば迫りくる疫病(またはペスト)になります。なお、plagueを日本ではプラーグと発音する人が時折いますが、正式発音はプレイグです。

400字詰め原稿用紙で3000枚にもなる大作が、紆余曲折がありましたが20世紀の終わりに刊行できたことで、訳者一同大変喜んでいるところです。

著者は科学ジャーナリストでピューリッツア賞受賞作家でもあるローリー・ギャレットLaurie Garrettです。1995年ザイールで発生したエボラ出血熱に際しての彼女の記事のひとつは、本講座第7回で引用しました。また、カミング・プレイグのごく一部を抜粋したテレビ映画については本講座第54回でご紹介しています。

本書の内容の簡単な紹介として、「目次」と訳者による「あとがき」の部分を以下に転載します。これまでに数多く出版されている感染症関連の書籍とは比較にならないすばらしい内容ですので、是非多くの方にお読みいただき、彼女のメッセージを受け止めていただきたいと思います。


「目次」

第一章

マチュポ:ボリビア出血熱

第二章

健康転換の時代:疫病根絶を目論んだ楽観主義の時代のなかで

第三章

サルの腎臓と満ちてくる潮:マールブルグウイルス、黄熱、ブラジル髄膜炎の流行

第四章

森のなかへ:ラッサ熱

第五章

ヤンブク:エボラ

第六章

アメリカ建国二〇〇年祭の陰で:ブタインフルエンザと在郷軍人病

第七章

ヌザーラ:ラッサ熱、エボラ出血熱、そして、発展途上国の経済政策と社会政策

第八章

革命:遺伝子工学とがん遺伝子の発見

第九章

微生物を引きつける都市:都市を中心に広まる病

第十章

遠い雷鳴:性感染症と麻薬中毒者

第十一章

ハタリーヴィニドゴドゴ(危険とても小さなもの):エイズの起源

第十二章

(ほとんど男性が論じてきた)女性の衛生:毒素性ショック症候群

第十三章

病原菌の逆襲:新薬を開発つづける人間たちー薬剤耐性の細菌、ウイルス、寄生虫

第十四章

押し寄せる第三世界の波:貧困、貧弱な住宅、社会の絶望と病気とが織りなす現実

第十五章

すべてが迅速に:アメリカのハンタウイルス

第十六章

ヒトと自然:アザラシの疫病、コレラ、地球温暖化、生物の多様性、微生物のスープ

第十七章

解決策を求めて:備えと、監視と、新しい理解


「訳者あとがき」

有史以来、人類は絶え間ない進展を続けてきた。文明に根ざした農業の発展で、人間が密集するようになり、食糧や労力のための家畜の飼育が始まった。遊牧民から農業文明への変化は未開拓地への人間の侵入、さらに遠く離れた人々との貿易へと進んでいった。ところが貿易は病原微生物の移動も助けることとなった。十五世紀から十七世紀にかけての新世界への人々の移動は、新世界にそれまで存在していなかった病原微生物を持ち込み、また、逆に新世界からヨーロッパなど旧世界へも病原微生物が移動していった。こうして早くも十九世紀までに、全世界は病原微生物にとっては単一の社会となった。

病原微生物についての科学が始まったのは十九世紀後半に細菌が続々と分離され、ついで、十九世紀末にウイルスが初めて分離されたのを契機とする。二十世紀はまさに微生物学の進展の世紀となった。抗生物質の発見により細菌感染は治療可能となり、天然痘や狂犬病といった恐ろしいウイルス病もワクチンにより防ぐことが可能となった。第二次大戦終了後の公衆衛生の改善はめざましく、多くの感染症が過去のものとなってきた。一九八〇年に世界保健機関が高らかに発表した天然痘の根絶宣言は、微生物に対する人類の勝利を決定付けたかに受け取られた。もはや感染症は過去のものという考えが世界中にひろまり、これからは癌や慢性疾患が重要な研究課題とみなされるようになった。それとともに感染症の研究・教育、公衆衛生への関心は世界的に大きく低下した。しかし、その時すでにエイズが発生しており、数年後には全世界に広がっていたのである。

一九六〇年代終わりからは、野生動物を宿主とする致死的なウイルス感染症が突如として現代社会に出現しはじめた。アフリカ大陸ではマールブルグ病、ラッサ熱、エボラ出血熱の存在が明らかになり、公衆衛生関係者に大きな衝撃を与えた。先進国に生息する野生動物でも危険なウイルスを保有することが明らかになってきた。その典型的なものは米国でみいだされたハンタウイルス肺症候群である。抗生物質で制圧可能と思われた細菌は、耐性を獲得し、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)、多剤耐性結核菌などの形で人類への逆襲を始めた。感染症の根絶は幻想にすぎなかったことが明らかになってきたのである。一九八〇年代終わりには、新たに出現、または再出現する感染症(新興・再興感染症)対策の必要性が国際的に大きな問題となってきた。日本でも、百年前の伝染病予防法が一九九九年にやっと改正されて、動物由来の感染症も含めた対策が進められることになった。二十世紀後半における主な新興・再興感染症をあげてみると四六一頁の表のようになる。(表は省略します)。

本書の著者ローリー・ギャレットは米国の新聞ニュウズデイの科学ジャーナリストである。カリフォルニア大学で生物学を学び、スタンフォード大学では博士課程で免疫学の研究を行った。(注:免疫学を研究する人なら誰でも知っている蛍光活性化細胞選別装置FACSを開発したことで有名なレン・ハーツエンバーグLen Herzenberg教授の研究室です)。婦人雑誌の記者として活躍していた母親が若くして癌で死亡したことから、癌の治療法をみつけだしたいという動機からであったという。ところが一九七〇年代半ばから八〇年代はじめにかけてザイールではエボラ出血熱、米国では在郷軍人病など、まったく新しい感染症が出現し、これが契機となって、彼女は大学を離れて科学ジャーナリストの世界に入った。結果的には母親と同じ道を歩むことになったのである。ちょうどエイズが問題になりはじめた時でもあった。

一九八〇年代を通じて彼女は感染症に関する情報を集め、エイズを中心として感染症に関する多くのすぐれた記事を書いてきた。一九九二年からは一年間ハーヴァード大学公衆衛生大学院の客員研究員の地位が与えられ、そこでまとめられたのが本書、「カミング・プレイグ」(直訳:迫りくる疫病)である。一九九四年に本書が出版された直後には、本書での予言を裏付けるかのように、ザイールでエボラ出血熱の大きな流行が起きた。キリスト教団体の医療品輸送チームにまぎれこんで現地に入った彼女の報道活動はめざましく、その報道活動に対して一九九六年にはジャーナリスト分野で最高のピューリツア賞が与えられた。

本書は、出現する感染症制圧にたちむかう「病気のカウボーイ」を主役とした、人類と病原微生物の生存競争の一大叙事詩ともいうべき壮大な物語である。第二次大戦後のグローバリゼーションのスピードはすさまじく、旅行、貿易を通じて病原体も新しい地域にただちに運ばれるようになった。世界的な人口増加は病原微生物の感染する相手を増加させ、伝播を容易とした。森林破壊、都市化が進み人間が病原微生物の隠れ家に入り込む機会は増大した。その結果として出現したボリビア出血熱、マールブルグ病、ラッサ熱、エボラ出血熱などは、CDCを中心とする、「病気のカウボーイ」の活躍で制圧されてきた。これら急性感染症と異なりエイズでは解決のめどはまったく見えてきていない。ひととき根絶可能と期待されたマラリアは、以前に増して発生が増加してきた。先進国である米国では、新しい感染症として在郷軍人病やハンタウイルス肺症候群が見いだされた。本書はそれらの実態を生々しく描写しており、感染症のエンサイクロペディアとも言われている。

しかも、数多く出版されている類書と異なり、単なるドキュメンタリーにとどまらず、政治、経済、社会、文化などさまざまな面から問題点が深く掘り下げられている。そこで浮かび上がってきたのは、地球規模の問題となった感染症の脅威の現実と、それに対する公衆衛生の破綻である。公衆衛生のかかえる深刻な問題をこれだけ克明に指摘した本書は、一九六二年に環境破壊を取り上げたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」に匹敵する、二十世紀最大の傑作といって過言ではない。

世界での感染症対策の中心と期待されている米国の現状も、科学ジャーナリストとしての著者の目から眺めると多くの問題を抱えている。著者はカミング・プレイグの続編ともいうべき、Betrayal of Trust(信頼の裏切り=仮訳)という本を二〇〇〇年八月に出版した。裏切られたのは公衆衛生への信頼である。ここでは公衆衛生破綻の実状と、それに伴う地球規模での健康の危機がさらに克明に描きだされている。

現代の科学、社会、文化などが病原微生物の生存に有利に働いているという、著者の指摘はきわめてするどい。人類がみずから招いた地球のバランスの喪失。その中で解決策を見いだすために残された時間は少ない。今、立ち上がらなければ病原微生物との戦いに人類は敗北するであろうという予言は、二十一世紀に向けての著者の強烈なメッセージである。

翻訳にあたっては、一九九四年にファーラー・シュトラウス・ジロー社から出版された初版を、ペンギンブックが一九九五年にペーパーバック版として出版したものを底本とした。ペーパーバック版では、わずかながら一部に手が加えられている。訳語の選択にあたって、とくに本書でしばしば登場するCDC(Centers for Disease Control)に含まれるcontrolは「対策」と訳されることも多いが、より近い意味をもつと考えられる「制圧」の語を採った。なお、CDCの名称は、最初Communicable Disease Centerであったのが、一九七〇年にCenter for Disease Control(一九八〇年からはCenters for Disease Control)となり、一九九二年にCenters for Disease Control and Prevention(疾病制圧予防センター)に改称されているが、略称としてはCDCが一貫して使われている。

(後略)


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