第40回 過ぎ去った人々-2 (2008/07/1)

過ぎ去った人々2. 放医研の中井斌遺伝研究部部長と初めてお会いしたのはハワイのインターナショナル・マーケット・プレスであった。アメリカでの会議に出席した後の帰途とのことであった。放医研の遺伝研究部の様子を伺い始めたのだが、途中でフラ・ショウが始まると「これは見なくちゃならん」といって話はそっちのけで跳んでいってしまった。よく喋りえらいせっかちな人だなとその時は思った。

その中井部長が遺伝研に来られて、室長の根井正利さんが辞めたのでその後任に来てもらえないかという。放医研の所長も御園生圭輔先生となり、遺伝研究部でもぜひヒトの遺伝研究を行って欲しいという要請があること。それまではショウジョウバエ、カイコ、イーストといずれも遺伝研究に大事な生物を用いての調査研究であろうが、放医研としてはともかくも人類遺伝を旗印に掲げて欲しいとのことであった。そのときは素直にお引受けした記憶がある。後での話であるが、中井部長は、人事でこんなにスムースに行っことはなかったと言っておられたが、その後の研究部の運営ではなかなか厳しいものがあったようである。

当時は近親婚調査による遺伝的荷重の推定に関心が持たれており、各地で調査が行われていた。木村先生の紹介で古庄敏行先生が集めた聾唖の核家族のデータについて、分離比解析や致死相当量の推定などを行った。古庄先生の集めるデータは精度がよいとの定評があり、データの面でいろいろとお世話になった。モデルのテストができるデータを集める人で、いろいろと討論した後に完璧とはいえないまでも分析に耐えられるデータを常に用意してくれたので有難かった。

放医研に戻ってまもなく世界保健機構WHOのtraining grantでスタンフォード大学遺伝学部のカヴァリ-スフォルツア博士の研究室に1年間ポストドグとして滞在することになった。スタンフォードでは学部長のノーベル賞受賞者のJレーダーバーク博士を始めとして、素晴らしい業績を残している多くの先生方や同僚のポストドグ、学者の卵である院生と話し合う機会を持った。レーダバーグ博士は穏やかな人で初対面の私にもにこやかに元気にやって下さいと声をかけていただいた。

帰国後、私の関心は利用し得るヒトデータを活用することを最優先にして、日本人類遺伝学会の諸先生方、その多くは医師の先生方であったが、機会あるごとに接触をとることに努めた。藤木典生先生とは瀬戸内海の小島(愛媛県の怒和島)へ近親婚調査に同行して、健康調査の実際を体験する機会をさせていただいた。中島章先生は日本全体の眼疾患の家族調査のデータを集められており、分離比分析でお手伝いさせていただいた。当時、助手の藤木慶子さんにデータの詳細について確認する作業をしていただいたものである。中嶋八良先生には日本人の多型(血液型、酵素型など)データを提供して頂き、遺伝子頻度の計算式の開発に寄与することができた。古庄先生を介して東京医科歯科大学の多くの先生方にもお世話になった。ある日突然笹月健彦先生から電話があり、「スタンフォード大学のローズ・ペイン博士から聞いたのだが、ぜひHLAの研究を共同で行いたいのだが、いかがであろうか」というのである。ローズ・ペイン博士には、私はスタンフォード大学でお目にかかったが、HLA抗原を単独で発見された方の一人である。当時、私はがんセンターの疫学の平山雄先生の研究班の班員辻公美先生(東海大学医学部)のHLAデータ解析のお手伝いをしていたのだが、これは思いもしなかった話である。もちろんお受けした。笹月先生は非常に明晰な方で、どのようなデータをとれば目的とする結果が得られるのかの道筋をしっかりと見極め、計画実行をされる。先生のグループの諸先生方ともども、私は随分とお世話になった。国際人類遺伝学会に出席したおりテルアビブの地中海海岸で共に遊泳したことは忘れられない一こまである。

ところで私の放医研での研究について語らなければならないであろう。採用されたときに与えられた研究テーマ(業務)「放射線の遺伝的影響」が絶えず私の頭の隅にあったのは否めない。外国留学もそのための基礎知識を得るためと自分なりに納得していた。最もその期間は業務から解放されて新しい学問の知識を身につけることの楽しみがあった。放医研へ「出戻り」したときはまた業務に戻った気持ちであった。今度は部長もいるし、身分も室長であったので、具体的な業務として何ができるかについて考えた。一人で考えてもどうしようもない問題なので、他の室長さんや中井部長とも相談をしたのだが、最初に就職したときと状況は少しも変わらない雰囲気であることに気づいた。そもそも「放射線の遺伝影響」という用語がこの方面のバイブルとされた「国連科学委員会の電離放射線による遺伝影響報告書」のタイトルに由来していたので、「ありがたい」お経の題目「南無阿弥陀仏」のようなものである。後でわかったことのだが、遺伝的影響Genetic effects、遺伝性影響Hereditary effectsの区別がわからず、漠然と両者をひっくるめての遺伝影響を遺伝的影響と呼んでいたのである。

およその様子がわかりかけた当時の研究体制は、遺伝リスクは「部長の調査研究業務の一環」で室長と研究室員は特研と称する霞が関の本庁との関わりで決まる特別研究のテーマに従事する、というものであった。各研究員はそれをサポートするという意味で、自己の判断で採択できる「経常研究」を行うことができた。私は人類遺伝の調査研究をするということで、「実験」的特別研究に参加することはなかったが、今から考えるとデータの統計処理などでなぜ声がかからなかったのか理解に苦しむ。

そこで私は国連科学委員会の遺伝影響報告書、アメリカ科学アカデミーの遺伝影響報告と国際放射線防護委員会報告書を読みあさって、まずは何が問題なのか、それに対する答えは何かを探すことにした。最初に明らかになったことはGenetic とHereditaryの違いである。前者は発生学的な用語で、放射線影響の対象は体細胞である。したがって遺伝的リスクの主体は放射線発がんである。一方後者は生殖細胞への影響で、これは親から子どもに伝わる遺伝子に生ずる異常、すなわち放射線による有害突然変異が問題となる。これが遺伝性リスクである。それに、人類遺伝学では交配実験ができないから、それに必要なモデルを開発し、数学(統計学)が使えるデータを集める手法を考えざるを得ない。

そこで毎年のように更新される大量の報告書を読み、その一部を日本語に訳したりして知識の吸収に努めた。しかし内容の質も量もとても個人でこなせるものではなく中井斌部長と相談したのだが、リスクの研究が大事なことはわかるが現状では皆それぞれ手いっぱいなので、現状の体制でやるしかどうし様もない、というご返事であった。私以外の研究部のメンバーはそれなりに特別研究に忙しく、私は孤立せざるを得ない状況が続いた。何人かの室長さんとは夕方研究室で話合う機会があったが、それでは一緒にやろうという話にはならなかった。所内では「安全解析研究官」という官職が設けられていたのだが、リスクと安全の概念すらはっきりしない状況でとても科学的仮説に基づいた調査研究が行える状況ではないように思えた。報告書の翻訳やら、解説書の作成のお手伝いはしたのは覚えている。遺伝性リスク調査研究のネットワークが作れず悶々としていた頃に機会は突然やってきた。

それは定年退職の数年前に、国際放射線防護委員会のメンバーであったKサンカラナラヤナン教授(Prof K Sankarnarayanan)が放医研に来られて、私の研究室に突然入って来たのである。背の高い大柄の方で、自己紹介されたお名前と容貌からインド人であることが推察された。国籍はオランダだが、生まれはインドであるとのこと。長い苗字なので、本人のお許しを得てサンカラ先生と呼ぶことになった。非常に有難かったのは、それまでこれはと思う専門家の先生にお尋ねしてもはっきりしなかった事柄の多くがサンカラ先生との会話を通して明瞭になったのである。たとえば遺伝リスクの指標は遺伝性疾患の発生頻度とする。その具体的なデータは新生児で調べられているし、有病率のデータでは一部は成人病にもある。それと症状が同じ疾患でその遺伝性の割合のおよその値もデータとしてあり、突然変異率が2倍になったときの生殖腺の倍加線量が分かれば(これだけはマウスの実験データを用いざるを得ない)疾患発生頻度の相対的増加分(リスク分)が計算できる。こうして求めた予測リスクと広島・長崎の原爆被爆者の観察データを比較することで、放射線の遺伝性影響があるのかないのかを検定することができる。データの精度、質や仮説に伴うパラメータの値など精査する作業は気の遠くなるくらい煩雑で苛々するものであった。信頼度はともかくも検定可能なことは確かである。言われてみれば難しいことは何もないようだが、量的に判断する思い切りが重要である。今でこそ「放射線の遺伝性影響」は否定的な考えが支配的であるが、当時はむしろ肯定的でその証拠となるデータを見つけるのに躍起となっていた。この問題は国会でも取り上げられ、中井斌部長も「現状では放射線の遺伝影響があるのかわからない」という説明をしている。作業仮説の枠組みがきちんと理解されていなかったことが問題の解決を遅らせてしまったとしか言いようがない。

サンカラ先生が放医研を訪ねてきた目的の一つに「多因子性疾患の遺伝性リスク」のモデルの作成とそのリスクを推定する作業部会を国際放射線防護委員会の下に立ち上げるための人探しがあった。はからずも私はサンカラ先生のお眼鏡に叶いそのメンバーの一人に選ばれた。放医研に来てからそれまで遺伝性リスクの調査研究に相当な時間を費やしてきたのだが、これに関するまとまった論文に自著の分は一つもなかった。しかし、サンカラ先生とお会いしたことで定年退職後ではあったが共著の英文論文(Mutation Reseach)がいくつかでた。やっぱり良い師に出会うのは運だというが、私はその運、しかも最後の運に恵まれたのである。おかげ様で昭和33年に放医研に就職したとき江藤秀雄障害研究部部長から申し渡された業務「放射線の遺伝的影響」に対する報告書をまがりなりにもまとめることができたのである。

多因子性疾患の遺伝性リスク作業部会を始める前に、サンカラ先生と放射線の遺伝性影響があるかないかの話合いをした。その結果は「放射線の遺伝性影響はみつからない」という作業仮説をたてて棄却できるか否かを調べることになった。その後でサンカラ先生が言われた言葉が印象的であった。「ノリ、この仮説が棄却できなかったら、我々は職を失うぞ。換言すれば職を失うために我々はこれから頑張ることになる」。事実「職を失う」という仮説は両人共ども身をもって実証することになった。退職後13年が経過したが、この放射線の遺伝性影響についてまとめた書がようやく出版(裳華房)されることになった。

節目の折には木村資生、Newton E Morton、K Sankaranarayanan、それにL L Cavalli-Sforzaの諸教授の他、多くの同僚や後輩に啓発された。よい師に出会うこと、積極的に質問をすることで自分自身のネットワークを構築して学ぶことができたのは本当に運が良かったのだと思う。

「調査研究」という用語には業務の臭いがする。放医研ではこの用語が常用されていた。国立の研究所は研究プロパーよりも業務としての研究が優先される。業務は好むと好まざると研究公務員の一人としてこなさなければならない。業務のための調査研究には、それにはもちろん基礎研究も必要であろう。業務であれば報告書が伴う。やりっぱなしというわけにはいかない。研究費を頂戴すれば必ず報告書をだすのは当前だし、成果は論文にまとめるのは義務でもある。

沈黙は殻に閉じ籠りがちな傾向を生む。課題について理解していようがしまいが、手をあげてしゃべらなくてはいけない。理解していても声を上げなければ、第三者にはわからない。そうなると調査研究のネットワークも育たない。その結果いつまでも膠着状態が続き何も解決しない。

「孤愁」は今回で終わりとする。長い間フォーラムの一つとして開くことができたのは寺尾恵治さんのご厚意、それに配信に関して高野淳一朗さんのお世話になりました。ありがとうございました。