第38回 ハーデイ・ワインベルグの法則 (5/20/2008)

ハーデイ・ワインベルグの法則。遺伝学入門のどのテキストでも、相反する作用要因がないと、優性表現型は劣性表現型の3倍の割合(3:1)で集団内に存在するのが当然であるかのように書かれている。この自明とも考えられる事柄を改めてまとめたのがハーディの法則[G.H.Hardy(1908)]である。当時メンデル遺伝学に反駁したある学者が優性形質の短指症を例に取り上げ、集団中に広まる筈なのに事実はそうではないという主張を展開した。

クリケット友達であったパンネット(Punnet、生物学者)がこの件についてハーディに相談したところ、これに反論したのであった。クリケットが取り持つ縁である。1908年にアメリカの科学雑誌「サイエンス」への投稿論文で、優性形質が決して異常に増えないことを簡単な代数を使って証明したのである。申し訳なさそうに「専門知識のまったくない領域の問題に関わることは心苦しいのだが、生物学者に分かってもらえることを期待して非常に簡単な事柄を指摘したい」と論文の書き出しで述べている。

この法則は数ヵ月前にワインベルグが独立に発表していた[Weinberg 1908 ]。しかし、ドイツ語で書かれた論文は、英語圏の研究者に読まれることなく、長らくハーディの法則として知られることになった。1940年代になって、カート・スターンC Stern(1943)がこの論文を発掘して、それ以後ハーディ・ワインベルグの法則と呼ばれるようになった。ちなみに私はスターン博士とカルフォルニアのバークレイでお会いしたことがある(孤愁27回)。この法則はあまりにも自明で、「発見」に値するほどのことはないと考えられていたようである。ライトSewall Wrightはハーディやワインベルグの名を知る以前から、この法則を使用していたという。木村資生先生も二倍体生物集団の単なる二項法則に過ぎないとおっしゃっておられたことを覚えている。しかし、一見自明であるが、ハーディ・ワインベルグの法則は二倍体生物の集団遺伝学の出発点である。ハーディの論文はいかにも数学者らしい発想で書かれている。

法則は二つのことを述べている。第一に、十分大きな集団で任意交配が行われ、突然変異、移動、選択がなければ、遺伝子型頻度は世代を通して変化しない。すなわち、頻度を変える要因がなければ何も変化しない。まさに自明といえば自明である。雌雄で遺伝子頻度に相違があったとしても、子どもの世代で平均化されて以後やはり変化しない。しかし、近交inbreedingや同類交配(あるいは非同類交配)assortative matingがあると、対立遺伝子頻度は変わらないが遺伝子型頻度は変化することから、法則の意味がはっきりするであろう。第二はもっと有用なことだが、法則は遺伝子頻度がわかれば遺伝子型頻度を予測することができることである。対立遺伝子Aとaの頻度がそれぞれpとqであると、接合体AA、Aa、aaの頻度はp2、2pq、q2である。すなわち、遺伝子型頻度はより基礎となる遺伝子頻度であらわすことができる。これから表現型がどのような遺伝様式をしているかを集団データで検定することが可能である。ハーディ・ワインベルグの法則はむしろこの第二の意味で理解されている。

1908年の論文でワインベルグは法則を複対立遺伝子の場合に一般化し、1909年の論文で複座位へ拡張している。2座位以上では1座位の場合のような平衡状態は1世代で得られず、毎世代1/2の割合で漸近的に平衡状態に近づくことに気付いていた(連鎖不平衡あるいは配偶子不平衡の考え。ただしワインベルグは連鎖の事実を知らなかった)。これによって二倍体の任意交配集団の基本的性質が明らかとなった。この事実は木村(1960)やMorton(2008)は、Robbins(1918)が最初に発見したように書いているが嚆矢はWeinberg(1909)である。ワインベルグの論文はドイツ語で書かれており、イギリスやアメリカの遺伝学者に注目されなかったのであろう。メンデルの論文が地方の雑誌にドイツ語で書かれたため、30余年間無視される悲哀をワインベルグも受けたのである。おなじようなことがマレコーMalecot(1948)の地理的隔離や血縁者間の確率的考察についても起きている。この場合はフランス語でローカルな雑誌に発表されていたからである。

ハーディ・ワインベルグの法則はヒト集団のように交配実験ができないとき、対立遺伝子頻度が高いcommon形質の遺伝様式を調べるのにたいへん有用である。よく知られているのがヒトのABO血液型である。二十世紀初頭からこの血液型が遺伝形質であることは知られていたが、ベルンスタインBernstein(1924, 1925)が遺伝子頻度を用いて二座位対立遺伝子説に対して一座位3対立遺伝子説が適切であることを提唱して初めて明確になった。フィッシャーFisher(1947)はこの方法でRh血液型の遺伝様式を明らかにしている。今日この方法は標準の遺伝学教科書に記載されている。

ハーディは当時イギリス、当然ながら世界を代表する数学者の一人であり、一方ワインベルグはドイツの産科の医師であった。おそらく両人は一度も会ったことはなかろう。

ハーディはその生涯のほとんどをケンブリッジで過ごした。共同研究者リトルウッドJ.E Littlewoodとはすばらしい友人であり、数学に関して多くの生産的な研究をしている。数論や複素解析に多大な貢献をなし、それらは深遠でしかも創造的であった。‘ハーディの法則’についての論文の2ヶ月後の9月には「純粋数学教程 A course of pure Mathematics」という教科書を書いている。これは大いに読まれ、版を重ねたという。私が早稲田の学生であったとき理工学部図書館で手にとり、最初の数ページを読んだが英語が苦手でそれ以上進まなかったが妙に印象に残った本である。当時は原著のテキストを読む程の学力がなく、そのまま未だに読了していない。

二十世紀初頭インドの独学の天才ラマヌジャンRamanujanを世に出さしめたのはハーディであった。他の数学者はラマヌジャンを理解し評価することはなかった。独身で午前は数学、午後はクリケット、夕方はバーでワインという保守的な生活を過ごしていたハーディはラマヌジャンを見出したことは生涯でひとつのロマンチックな事件であったと言っている。いくつもの定理が書かれている手書きの手紙を読んだとき、こんなことがあるのか、これはかなりの高等数学を理解した者だけが書ける事柄で、これらの公式や定理は正しいのであろう。正しくなければこれらを発見する想像力は考えられない!ラマヌジャンには近代数学に必須の証明という概念がなくナマギーリ女神の啓示であるという「結果」のみが書かれていた。たとえば彼が与えた円周率πについての無限級数展開がコンピュータによるπの値の計算に今日使われている。また手軽な電卓で計算できるπ4≒2143/22なる公式をその導き方を示さずに、ぽつんと与えている。2143÷22=√√の順序で電卓のキイをおせばπ≒3.14159265258…が得られる。これは小数点以下8桁まで正しく、10桁目を四捨五入すると9桁目まで正しい数値を与えている。もちろん当時に電卓などは存在していなかった!いかなる遺伝子の組み合わせのゲノムがナマギーリ女神の啓示との相互作用で、ラマヌジャンのような天才を生じせしめたのであろうか。誰にもわからない!

ラマヌジャンはハーディの招聘でイギリスに滞在したのはわずかな期間であった。彼が入院したときのある小話をハーディは書いている。お見舞いに駆け付けたハーディが乗ってきたタクシーの番号がありきたりのつまらない数字1729であったよ、と。数論の大家としてタクシーの中で暇つぶしに少し何かを考えたようである。しかしラマヌジャンは「そんなことはない。とても興味深い数です。二つの立方数として二通りに表せる最小数ですよ」と即答したという(123+13と103+93)。どうしてラマヌジャンはそんなことを知っていたのだろうか。おそらく、この‘ささやかな’発見を「ノート」に記しておいた、数字の世界に慣れ親しんでいた彼なればこそ、その記憶をすぐに呼び覚ましたのであろう。

ハーディは純粋数学の純粋数学者であることを自認していた。彼にとって純粋数学は美であり役には立たないものである。役に立つ数学(応用数学?)は面白くもなく、醜悪である。「ある数学者の生涯と弁明」A mathematician’s apology(1940)で「私は“役に立つ”ことはしなかった。私の発見は、直接的にも間接的にも、またよきにつけ、悪しきにつけ、この世の快適さにいささかの貢献もしなかったし、今後もするとは思えない」と記している。

彼の最も自明な数学的論文(?)が断トツに広く知られるばかりか、不幸にも実務に重宝されているのにはあの世で当惑しているに相違ない。この論文は当然ながらイギリスの科学雑誌Natureに投稿されるべきものを、大西洋を越えてアメリカのScienceに載せられた。なぜだろうか。一説にはメンデル学派と生物統計学派の紛争に巻き込まれたくなかったという。ハーディは同僚の数学者たちにこの論文を見られたくなかったのではなかろうかとJF Crow(1988)は言っている。

ワインベルグの日常は医師として多忙であったが、平凡であった。しかし知的活動は別で、新しいアイデアを次から次へと定式化していった。当時、交配実験で得られる表現型の観察データが遺伝メカニズムを推定するほとんど唯一の手段であったから、交配実験のできないヒトのデータはとても手に負えないものがあった。ワインベルグは巧妙に数学を用いて実験生物では多数の子孫の観察で容易に解決するであろうことを、ヒトでは難しいとされる問題に解決の道を開いて行った。

スターンC. Stern(1962)によると、ワインベルグは多忙な開業医として42年間を過ごした。その間3,500の赤ん坊を取り上げたという。医師としての多忙な生活を過ごしながらも論文を書き続けた。多くは長いが注意深く分析したデータにあふれている。いくつものオリジナリィテイに満ちた論文を含む160以上の原著を発表し、その他にレビューやコメントがある。残念ながら、存命中ドイツ以外ではほとんど評価されることはなかった。

研究は単独で行われた。弟子も共同研究者もいなかった。友人はほとんどいなかったようである。どうやら遺伝学者のグループの外にいた気配がある。自分が適切に評価されていないとも思っていたようでもある。

産科医の体験から、同性と異性のふたごの頻度から、一卵性と二卵性の頻度を推定する方法を工夫した。ワインベルグの研究で特に著しいのは血縁者間の相関について(Weinberg 1909, 1910)であり、フィシャー(Fisher 1918)やマレコー(Malecot 1948)に先んじている。動植物の実験では適切な親の交配からの子どもの分離比を調べるのであるが、子供の患者から注目された健康な両親と子どもの核家族を集めると、劣性疾患の患者の分離比が1/4より大きくなるいわゆる確認による偏りの問題に対する解決法はフィッシャーやモートンの分離比分析の嚆矢となった。後世代で発症年齢が若くなるあるいは症状が重篤になる表現促進anticipationなる現象に注目して、その調査法による偏りに言及している。また四肢短縮症achondroplasiaは優性遺伝であるが、正常な両親の子どもで、異常児は出生順位が後になるほどに生まれていることに気付いて、これは突然変異がその要因であると指摘した (Weinberg 1912)。すなわち四肢短縮症が子どもの出産時における父親年齢に依存して表れることに気付いたのである。今日、これは精原細胞での減数分裂が年齢とともにその回数が増え、したがってDNA の複製エラー(突然変異)を起こし易くなるためであると推論されている。卵原細胞はすべてが出生以前に減数分裂を終了して卵子が形成されているのでそのようなことはない。男子の遺伝子突然変異率は女子のそれより数倍も高いかあるいは同じであるかは今日分子レベルで盛んに論争されている。ただし欠失などではそのようなことはみられていないが、ダウン症のように染色体の21トリソミーは逆に母親年齢に依存して増えている。

これら多岐にわたる研究を勘案すると、ワインベルグこそが遺伝疫学Genetic Epidemioloyの創始者といえよう。モートンは「遺伝疫学は血縁者群での疾患の病因、分布やそのコントロールと集団における疾患の遺伝性を取り扱う科学である」と定義した(Morton 1982)。ヒトの統計遺伝学の始祖はワインベルグであるといっても過言でなく、フィッシャー、ニール、シャル、モートンの貢献はその後に続くものと位置づけられよう。

集団遺伝学の出発点となるハーディ・ワインベルグの法則が純粋数学者と産科医によって定式化された事実は教訓的である。一つには他分野の人との話合うことで問題を別の観点から検討することの有効性、一つには専門家には自明と思えることでも客観的に見直す機会を持つことである。数学では公理を除き自明な事柄でも絶えず証明を必要とするが、実務からはデータを演繹して定式化する訓練を積むことも同じく大事である。