第33回 中国出張(11/19/2007)

中国出張: 手許にあるパスポートによると、1991年(平成3年) 10月21日中国の上海の虹橋空港に入境(入国)して11月2日に北京空港から出境(出国)している。蘇州と大原の放射線防護院の研究グループとそれらを統括する北京の要人らとの意見交換が目的であった。  成田空港の離陸はお昼頃であったか、富士山の噴火口を真下に見下ろし、火山活動も一休みとはいえ、火口から噴煙が真っ直ぐ上がる普賢岳を斜め下に展望したことが妙に記憶に残っている。地図をみると、東京・長崎と長崎・上海はほぼ等しい距離と見受けた。

上海:飛行機は着陸態勢に入ると眼下の海の青色と黄褐色のはっきりした一線を通過した。中国への入国である。空港には私の名前を書いたプラカードを掲げた男性が私を迎えに来ていた。会話は英語であった。申し訳ないがその人の名前はすっかり失念してしまったが、上海での宿泊先のオリンピックホテルへの案内や、その夜の上海の繁華街と蘇州河と黄浦江が合流する地区の黄浦公園へと案内をしてもらった。ホテルの食堂で共に食事をしたが、そのとき俄か仕込みに中国事情や若い人たちの外国留学へのあこがれみたいなものなどを聞き取った。彼も今はこのような外事係のような仕事をしているが、いずれは外国、とりわけ日本に行ってみたいと熱っぽく話していた。食後の散歩にダウンタウンをあるいたが、そぞろ歩きをする沢山の人で迷子にならぬよう歩いた。自転車の大群は話に聞いていたが、その無鉄砲な走行には身の安全が脅かされるのではないのかという恐怖感すら覚えた。女性の颯爽と走り抜ける様子は、上海の一つの流行であると日本でも新聞で報じられていたのを目の当たりした次第であった。川辺の公園ではネオンが川波にゆれてもの静かといいたいのだが、群衆の声が大きく、それなりにここは中国なのだという実感がせまってくるのを覚えた。上海から蘇州への鉄道の手配をしてくれており、翌日の朝は上海駅の構内まで見送ってくれた。
上海から蘇州までは西へおよそ1時間位はかかったであろうか。乗車するときは自分の乗る車両まで行き、ステップの前にいる切符係り(?)に切符をみせてから乗車する。私の座席は軟車(グリーン車?。通常の車両は硬車という)であったが、それほどクッションがよいという程ではなかった。乗車してしばらくすると、スチワーデスにお茶を振舞われた。日の燦々と射す中を走る列車の窓の外は、季節柄稲穂の黄色がまぶしかった。あらためて、この辺りは揚子江の沿岸で、イネの栽培が盛んな所であるなと思った。また日支事変の際にはこのあたりを多くの日本の兵隊が上海から内陸へ向って進んで行ったこと、特に私の母方の伯父が中国へ出征したことを母から聞かされたことに思いを馳せると、わが身が平和な時代に身をゆだねていることの有難さをふっと考えてみたりした。

蘇州:中国読みはスージョウ Sūzhōuである。列車は静かに駅の構内に入った。駅のホームはほとんど平地と変わらない高さで、日本の駅のように高くない。車両にステップがあり降りる具合である。数人の人たちが迎えに来ており、一人が私の名前を書いた大きなプラカードを掲げていた。お互いの意思疎通は英語である。私は英語が苦手で、相手方の流暢な英語についていくのがこれまた頭痛の種である。その晩は中華料理をご馳走になった。7~8人が紹介され同席したが、ご馳走はありがたかったが、緊張と疲れで話をあわせるのには参った。これも公務の一部(意見交換)と何とか無事にこなしたつもりである。
翌日蘇州大学放射線医学・公衆衛生学院を訪ねると熱烈歓迎の大きなポスターにこそばゆーい気持ちであった。いつか放医研の熊取所長が当地を訪問した時の様子をスライドで見せていただいたことがあったが、それとそっくりの状況に自分が置かれているのに気付いた。しがない室長と所長では差が大きいと思ったのだが、現実に即応するしかない。現実といえば、放射線防護についての意見交換が私に課せられた公務である。にわか勉強のICRP勧告1990(国際放射線防護委員会1990年度報告書)の解説と当時、神奈川県子ども医療センターと共同研究を行なっていた「先天性外表奇形のモニタリング」とチェリノブイルからのフォールアウト監視との関係で、放射線の影響は外表奇形の発生率では引っかからないという話をした。中国側からは当時進められていた計画の一つとして長江全流域の放射線モニタリングの話しがあったが、今ひとつその目的が掴めなかった。若い人たちからはあまり発言がなく、これも日本とよく似ているなという印象をもった。
翌日はいくつかの研究室を訪ねて、それぞれの研究室の様子を伺った。遺伝疫学の分野については残念ながら聞くことが出来なかったが、わずかに血友病の遺伝子を調べている人がいた。つたなーい英語で話し合うのでなかなか意思が疎通せず、残念であった。
蘇州は古くから中国の先進的な絹織物の産地として経済的富裕な町であったとのことで絹織物工場の見学に案内された。手作業での刺繍や錦織の製作中の様子を見たり、すでに精巧に出来上がった刺繍で、3年掛かったという大きな刺繍に感心したり、根気の良さに改めて感心した。北京からきたという日本人の観光ツアーグループと会い、北京の気候や気温の様子などを尋ねた。見学の最後に商品を販売しているコーナーにつれていかれたが、まだ旅の始めなので荷物になると、見るだけにした。

拙政園(ヂュオヂョンユエン):蘇州でも指折りの美しい名園とか、町の北側にあり、水や石(岩?)、楼閣、竹林、小島、橋がみごとに調和している。16世紀に造営されたというこの庭園は、蘇州で最大規模だという。1509年(明王朝の正徳4年)に官僚の王献臣が造営したという。王献臣は官僚を追放され、故郷の蘇州に戻り、愚かなものが政をつかさどるという意味で「拙政」という名をつけたとか。面積約5ヘクタールの拙政園は8年の年月を費やして造られたという。東園、中園、西園の三つの部分に大きく分けられており、園内で中心的な存在は水で、ほとんどが大小の蓮池である。蓮池の周りに東屋、橋、回廊、緑が水面に映って美しい景観を構成しているというが、水はあまり綺麗ではなかった。その極まりというのが「遠香堂」を主体とする中園で、中国古典文学名作の「紅楼夢」の舞台はここがモデルであったという。西園には「盆景園」がある。蘇州流盆栽の優秀な作品が集められており、沢山の種類の盆栽があった。それにしても沢山の人が一杯で、子ども連れの家族や、中国各地からの観光グループがこの公園の中に入り混じって、そのこやかましいこと。互いに話している言葉も私の案内人もわからないという具合で、のんびりゆったりとみて回ったりしたいのは山々であったが、時間も限られていたのでほどほどにして切り上げた。外に出た時、金木犀の花のにおいがしたので、私の家の垣根にこれが植えられているとガイドに話したところ、この粒状の黄色い花と砂糖を混ぜて食するとおいしいと告げられた。まだ試していないが、どんな風味がするのだろうか。何でも食するという中国人の心意気を感じた。

留園(リューエン):蘇州四大名園の一つである留園は、拙政園と並ぶ蘇州庭園の最高傑作という。留園は拙政園より小さいが、構成が緻密で景観が変化に富んでいる。さまざまな要素の間にバランスがよく取れており、気品も高い。長い回廊の廊壁には書家の墨跡がみられ、留園法帖とかいう。留園は400年も前の明の時代に最初に造られたが、後に改築され清の時代の代表的な庭園とされている。

寒山寺(ハンシャンスー):多分高校生の頃に国語で習った寒山拾得という「熟語」は唐代の僧、寒山と拾得の二人を合成した語である。寒山が経典を開き、拾得がほうきを持っている姿が古来禅画の好材料とされている。その2人が住んだというのが寒山寺である。ここで思いもよらず高等学校での漢文の授業との再会である。何がしかの人民元を払って、鐘をついた。カーンと冴えきった音がした。唐代の詩人、張継はこの寺で有名な「楓橋夜泊」という詩を詠んでいる。

            月落鳥啼霜満天     (月落ち鳥啼いて霜天に満つ
江楓漁火対愁眠     江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺     姑蘇城外寒山寺
夜半鐘声至客船     夜半の鐘声客船に至る)

蘇州は運河(クリーク)による水運が生活に溶け込んでいることから、旧市街地及び周辺の水郷地帯を含めて、「東洋のベニス」と呼ばれている。 しかし、一人散歩をして気付いたことは、クリークの汚染が進んでおり、鼻をつまむ所もあった。同じベニスでも北のベニス(ノールウェイのストックホルム)とは大違いである。残念である。路傍で素うどんを食べている母子がいた。たくましく生きる生活を垣間見た思いである。寒山寺の近くの太鼓橋の下の流れは流石に臭いはしなかったが、水色とはいえない、せめて潮来あたりの水の流れであればと思ったが、これも人の営みであろうと納得した。
蘇州から列車で上海に戻り、再びオリンピックホテルに泊った。ガイドが上海駅構内まで出迎えてくれて、大原へ行く上海(虹橋)空港までこまごまと案内してくれた。
今度は国内線のターミナルからの出発であるが、いろいろと新しい体験があった。まず乗客が「並ばない」のである。おっとり構えていると前列右左からどんどん割り込んで来るのである。並んでいる方も割り込む方も大声を発しているので、おおよそは見当がつくが、結局は無理無理が通るようだ。国内線と言えども旅行には身分証明書が必要で、搭乗口で提示を求められる。私もパスポートのチェックを受けた。しばらく待合室で待たされた後、搭乗のアナウンス(まわりの状況から判断!)があるや否や、搭乗口に向って我勝ちに突進するではないか。皆、飛行機まで走り、タラップでもまた競争である。なんと飛行機はエンジンを駆けているではないか。遅ればせながら飛行機に乗り込むと(飛行機の飛び乗りという貴重な体験!)もう後部座席しか開いていない。座席番号もあるようなない様な、とにかく座れたのでほっとした。まわりを見回すと、乗客全員がちゃんと座っている。立っている乗客は一人もいない。飛行中はモツアルト、シューベルトの子守唄などのクラッシックが放送され、「眠れ眠れ」と宥められていたような気分であった。席は通路側で外の景色を除き見ることはできなかった。

大原(tai yuan;タイ ユエン):山西省の省都である。大原武宿空港は市の南西13kmの所に位置する。出迎えの車で中国輻射防護研究院China Institute of Radiation Protectionに直行する。入り口両側に銃剣を持った兵士がそれぞれ1名づつ直立不動で立っていたのが印象的であった。かなり大きな施設で、この中の宿泊施設の一室に5泊6日(?)滞在することと相成った。
中国輻射防護研究院はかなり大きな施設で、研究院の内部、生物影響の部門を主として見て回るだけでも2日を要した。新生児の先天異常発生率と放射線の影響を監視するプロジェクトの統計の問題について、関心を示したグループとかなり丁寧なデスカッションを交わすことができたのは収穫であった。同様なプロジェクトは中国でも行っているとのことであったが、詳細は聞けなかった。研究院の所長が数学の出身だと聞き、意を強くした次第でもあった。またICRP1990の資料がまだ手許に来ていないというので、私が携帯していたコピーで何度か討論する機会を持った。若い人たちが熱心に発言する様子に私も遺伝以外についてあまり勉強していなかったので恥ずかしい思いをした。
折角大原に来たのだから、一日玄中寺へとガイド付きで案内してくれた。

玄中寺:(シュエンジョンスー;げんちゅうじ)。大原からの途中の道中は所々舗装がなく、車の座りごこちあまりよいとは言えなかった。大原からほぼ60kmの交城県にある中国浄土教の発祥の地である。まわりを緑に囲まれた谷底の風光明媚な場所であった。日本の浄土宗は玄中寺を祖庭としていることをここに来て初めて知った。女性のガイドが盛んにpure land school(浄土宗)、wind bell(風鈴)と連発していたのが耳に残っている。我が家は浄土真宗のお東さんに属するので、これを仏縁というのか、畏まってお参りした。曇鸞、道綽、善導を祀る三祖堂には彼らの絵など日本からのさまざまな寄進物か見られた。日本の仏教会との交流が盛んであるとのこと。伽藍は山の斜面に沿って下から上へと建っており、下から山門、天王殿、大雄宝殿、接引殿、菩薩殿、七仏殿と続いて、一番上に千仏閣がある。千仏閣内には木彫りの仏像が約70体余りが安置されており、生きいきした造形で、金色燦然と輝いていた。
私の仏教との関わりは我が家に仏壇があったことで、かなり形式的である。最初の出会いは、大東亜戦争で父の実家の近くの妙達寺(石川県石川郡出城村)の僧坊に疎開したときに始まる。明烏敏(そのときは存命)という偉いお坊さんのお寺ときかされ、母からお経を読むことを教わったり、お菓子欲しさにお寺さんの子ども会に参加したりした。父の死、その後の50回忌など、浄土真宗お東さんの仕来たりにのとって供養をした。「釈」の一字が戒名に必ずはいるから、お墓の宗派は戒名をみればすぐわかる。そろそろ母の7回忌となるが、浄土真宗は仏壇、お墓にもこと細かい決まりがある宗派である。ブラジルにいたとき宗教は何かと聞かれて、「nada(ない)」と答えたら、無神論は罪悪のように言われ、閉口したことがあったが、仕方なく仏教だと言い直したことがあった。こうなると無理やり仏教徒にさせられているようなものだ。とはいえ、折角の機会であったので、後日玄中寺のことを調べてみた。
正式の名は石壁山玄中禅寺という。北魏の延興2年(472)の創建で曇鸞(どんらん)大師(476~542?)が浄土教を研究して、その名が世に知られた。その後、隋代には道綽(どうしゃく、562~645)、唐代には善導(613~681)が継承した。曇鸞は五台山の近く雁門で生まれた。はじめは、不老長寿への望みが強く仙術に救いを求めていたが、インド僧・菩薩流支に会い「観無量寿経」を読み、「生死解脱の法こそが無限の生命を得て、不死へ至る道である」と浄土教に帰依した。曇鸞大師没後20年、大原の近くで生まれたのが道綽である。偶然立ち寄った玄中寺で曇鸞の碑文を目にし、曇鸞が仙経を捨てて浄土の教えに帰依したくだりに強い衝撃を受けた。「修行によってでは悟りは得られない。浄土の教えこそが救いである」と、それまで属していた涅槃宗を離れて玄中寺に移り住んで、念仏生活に入った。善導はその道綽に玄中寺で薫陶を受けた。彼は、その後長安の香積寺に移り、民衆にもっぱら念仏を勧めた。彼の教えは一挙に広まり、「長安城中念仏で満つ」といわれるほどであったという。
その善導の教えが日本に伝わって、浄土宗となった。善導が長安で著した書が「観経疎」である。法然上人が万民救済の道を求めて悩んでいるときに、この書を読み忽然と悟ったのである。「念仏往生こそ末法の時代に人々を救う唯一の道で、これぞ仏の本意である」。こうして日本の浄土宗が始まったのである。ちなみに、浄土真宗の開祖親鸞聖人の「鸞」の字は曇鸞大師の鸞からとったといわれる。曇鸞の誕生が476年、親鸞の誕生は1173年と700年の隔たりがあるが、その700年の隔たりや国を超えて曇鸞の思想が親鸞に伝わった過程はまさに「不可思議」な人の心の確率過程である。
研究院内は勝手に歩き回ることも叶わなかったが、常学奇chang xueqi君が面倒をみてくれた。季節柄少し寒いのでジャンパーが欲しいと話したところ大原のデパートへ連れて行ってくれた。面白いことはデパートで値切ったことである。聞いてみると、外国人の使う「元」は中国人のとは別立てで、中国人は外国人用の「元」を欲しがるから、そこを見込んで値切るのだという。つまり戦後間もなくの日本でもUS$を欲しがったのと同じだなと思い出した。彼には、大原の市内を案内してもらったり、彼の親戚の家に夕食をご馳走に招待されたりなどいろいろお世話になった。たしか日本へのお土産に地酒の老酒を紹介してもらった。大原を離れる朝、手のひらに載る大きさのxioxiao hanying cidian(中英小小辞典)を頂戴したが、それには To Mr YASUDA, wishing you happiness and long life. From chang xueqi. Oct 30,1991常学奇、とあった(謝々、再見!)。

北京:beijing.大原からは約1時間のフライトであったが、途中窓から見下ろす下は禿山の連続であったのを覚えている。機内では相変わらずクラシック音楽放送のオンパレードである。空港についたところ、迎えの人がいなくてあわてた。空港の旅行案内所に行き、北京の行き先に電話を入れるが、担当者が居ない?とで、後でもう一度電話しろという。3回ほど同じことを繰り返して、ようやく連絡がつき、迎えが来たときは3時間ほどが経っていた。何か言っていたようだが、手違いがなぜ起こったかは分からずしまいである。まあ無事に連絡がついたので、良しとする。北京市内のホテルに案内され、やれやれと一息ついた。
翌日、改まって今回の旅行の企画をしていただいた中国側の要人にお会いした。蘇州と大原での成果について簡単な経過報告をして私の務めは取りあえず終了である。ご苦労さんということで、万里の長城と頤和園を見てきて下さい、とのこと。早速出かけた。

八達嶺長城;パーダーリンチャンチャン。車で北京から北に向って行くと、途中で人が鈴なりの汽車と平行して走ることになった。まわりの山々はあまり緑豊かとは言えないのも、中国ならではと妙に感心する。「八達嶺」とある城門をくぐり、入り口につく。向って右側に入る。帰国後、聞いたのだが、私が上ったのは女坂で、左側は男坂と言うのだそうだ。二つ目の城楼までは緩い坂であった。そこから先は急になっており、ガイドさんはここまでにしましょうというので、しばらく男坂の方を眺めたり、写真を撮ったりした。天気がよくて遠くまで見渡すことができたのは幸いであった。北方の騎馬民族や他国の侵略を防ぐためとはいえ、こつこつとこの厖大な建造物を造ったのは国民性の発露の一面ではあるまいか。八達嶺付近は明代のもので、最近修復されたという。石とレンガで築かれ、数匹の馬が並んで通行出来るほど広い。城壁の縁は2mほど高く、銃眼があいている。一定の距離ごとにある城楼は2階建てで下層は兵士十数人の居住区で上層が見張り台で、いざというときは戦闘台を兼ねたという。

頤和園;イーハーユェン。北京市外西北約15kmにある万寿山と昆明湖からなる。面積290ヘクタールというが、大部分が湖と池である。公園であるが、もともとは清朝の離宮で、英語名はsummer palaceという。離宮の始まりは12世紀の金代に始まるというが、清代の乾隆帝が庭園の造成を大規模に行い、それが頤和園の基礎をになった。1860年の第2次阿片戦争のおり、英仏連合軍にほとんど焼き払われ、ほとんど廃墟となってしまった。その後、西太后が清国海軍の経費を流用して破壊された数々の建物を修復していった。1888年に頤和園と名づけられたが、西太后専用の避暑地となった。サマーパレスはこの故事によるとのこと。義和団事件(1900年)には日本も含めた8ヶ国の連合軍が侵略して略奪を行なった。全面的に一般公開されたのは、中華人民共和国が成立して以後のことである。
とにかく広い。案内してくれた女性ガイドは公務員のようで、職務で連れ歩いているみたいであった。私もかなり疲れていたので、高等学校の修学旅行生徒のように、言われるままに歩いたのが本音である。大きな石船、長廊という長い廊下には柱の梁に歴史、古典文学、神話などを題材とした無数の絵が描かれていたこと、昆明湖に架かる長い橋が霞んでみえた、などが印象に残っている。歴史の重みをずしんと感じる公園である。
ホテルに戻る前に、車で天安門広場を通過し、何故か清華大学の正門前を通り、外国人専用のショッピングセンターに連れていかれた。そこでは、家族への土産として絹刺繍のスカーフを求めた。翌日は北京空港まで送ってもらい、案内人からようやく開放された。ところが、通関の荷物検査で、老酒が引っかかった。どうやら外国人向けのお店で買ったのではない品物であることが問題らしく、別のコーナーに連れていかれた。英語の通訳がくるまで、30分ぐらい待たされたが、大原でお土産にもらったのだということで開放してもらった。いやはや言葉の通じないのは不自由なことである。なんとか飛行機に乗り込み、本当にやれやれであった。飛行機は中国沿岸の上空を南下し、途中、黄河の流れを見、長江の流れを見下ろしてから見覚えのあった上海上空で左に旋回して、日本へと向った。あらためて上海近海の海の汚れをみることになった。1991年11月2日無事成田に帰着した。