第3回 放医研1期(8/17/2001)

昭和33年の秋は狩野川台風が伊豆の田方平野に大被害をもたらしたことで記憶が鮮明である。今はもう家が建てこんで見ることはできないが、坂下から遺伝研に至る途中の坂道から眺望した中郷地区(大場あたり)はすっかり水没して水がきらきら輝いていた。一週間後、現地に足を運んだがはじめて見た水害の凄さまじさにはたまげた。水害でなによりも欲しいものはきれいな水であることも実感そのものであった。また稲穂から青い稲がしっかり生えて一面芝生ようになっていたのは強烈な眺めであった。秋には皇太子様と美智子様の婚約発表もあって、同じ世代の一人としてうれしく思った。

3. 放医研1期(昭和34年(1959) 4月1日-昭和36年(1961)8月10日)

私が遺伝研で一人相撲を取っている間に、千葉市黒砂町250番地に放医研が出来上がり(昭和34年3月23日第1期工事完了)、4月1日から東京から稲毛に通うことになった。放射線医学総合研究所の新設に至った経緯については三宅泰雄著「死の灰と闘う科学者」岩波新書194-197ページに書かれていることを最近知った。それによると放医研は厚生行政と基礎科学の両面を包括した国立研究所として新設の科学技術庁に付設されたとある。私の25年余にわたる奉職で、なにか全体としてまとまりのない感触が絶えずついてまわったのがなんとなく理解できたようなできないような、相変わらず曖昧なものが残る。当時の私はそれらのことが自分にどう関わるか知る由もない。第一、研究員といわれても研究すべき遺伝学のバックグランドがまったくない学部卒の人間はどうすればよいのか。生物第二研究室に配属されたけれども上司は誰もいないできたての真っ白な研究室やとりあえず作られた実験室がいくつもあるが、がらーんとした空間があるのみである。この年生物第一研究室に配属された理論物理の「小川英行」さんと研究棟三階の広い研究室に二つ机を並べて各自勝手に勉強をはじめた。小川さんはその後大阪大学教授となり遺伝学会木原賞をとり、退職後現在は仙台で後進の教育に励んでおられる。人当たりのソフトなまじめな学究肌の人である。
私はとにかく木村先生の論文を一つひとつ丁寧に読むことにした。頼りは数式である。遺伝学のことは用語を頼りにその内容を理解することにした。新設の研究所であるから、注文すれば時間はかかるが必要な文具などは買ってくれたが、如何せんどんな本を買うのかが決まらない。論文コピーの入手もどこにあるかわからない。そう度々三島に行くわけにはいかない。そうこうしているうちに、室長や部長が着任し、何人かの研究員も着任してきた。室長や部長も変なのが居たことでさぞかしびっくりしたことであろう。「仲尾善雄」部長は留学先のエデンバラのC Auerbachさんの所からの着任で、その縁で化学物質マスタードガスが突然変異を誘発することを最初に発見したこの大女性学者と千葉でお会いすることができた。
当時の放医研では全体集談会ともいうミーテングが行われ、研究に携わる人が一人ひとり「本人の研究」を紹介した。私も勉強したてのメンデルの法則の説明をした記憶があるが、冷や汗ものであった。今日のバイオインフォマテックス全盛の状況をみるにつけ、当時の数学と生物学はまったく異質の存在であった。すくなくとも私の体験では然りである。一人の室長は「生き物を数学で理解しようなんてできる筈がない。一つひとつの生き物は個性があるのだから、それを数式でまとめようとすることなんか無茶苦茶だ」とのたもーた。その当時は私も反論することができなかったが、これが日本の遅れた実情であることは後にアメリカに行ってわが意を得たこと、その個性ある生物でメンデルが共通の因子遺伝子を統計的方法で推測していたことを知り、その室長の無知なことがわかり溜飲が下がった。
そうこうしているうちに生物研究部に遺伝研究室が二つでき、私はやっと研究テーマと所属が一致することになった。遺伝研究部ができたのは昭和36年4月6日で、そこで始まったのが放射線量と誘発突然変異率の関係を調べるプロジェクト研究である。キイロショウジョウバエにγ線を照射して、その照射線量が増すと突然変異率が直線的に増えることを低線量で確認するという調査研究である。今なら、コンピュータシミュレーションをやって何匹ハエを調べたら有意な結果がでるか、いわゆる実験計画を最初に行うのが常識である。特にお金のかかる研究では予算を計上するのに必須の手続きである。当時の生物学者にはそんな発想はまったくなく、何匹ハエが要るのか、とにかく実行部隊にとっては死活の問題であるので計算しなくてはということになった。もちろん放医研に当時電子計算機なぞありはしない。タイガーの手回し計算機が唯一の道具であった。すでにアメリカで25レントゲン以上は直線性が確かめられていたので、それを8レントゲンの低線量までやるという。ハエのこと突然変異率のオーダーなど私には未知のことが多く、したがって遺伝研の木村先生の教えも受けてなんとか数をだした。3万のオーダであったかと思うが、私なりには貢献したと今でも思っている。実行部隊は5万やるといい努力の結果、8レントゲン以上は直線性があり閾値がないこと、今日でも国連科学委員会で問題になるクラスター処理の指摘などみるべき成果 (J Radiat Res 4,105-110,1963)を上げたと思う。
論文をみるとわかるが、何故か遺伝第二研究室の研究員2名(ともに数学出身)の名がどこにも載っていない。数の計算は木村先生への謝辞があるだけである。今更どうでもよいのだが、私の「やるせない思い出」の一つになってしまった。遺伝学の知識もあまりない数学出身者は別世界の人間で、論文に名を載せる程の仕事をしなかったと判断されたのである。たしかに、ハエのことを知ろうとして、みようみまねで飼うことなどをしてみたが、このごろハエがよく飛んでいるなどと聞きたくないことも聞かされたりした。あまり気にはしなかったが、実験屋さんは今更真似事をしてもと冷ややかであった。そういえば、しばらくの間研究費なるものがあることすら全く知らされていなかった。必要に応じて部長に相談して必要なものを買っていたが、文具やコピー代は高が知れている。まだ研究生活がどういうものかわかっていなかったのだ。給料以外に研究に使えるお金があることは大分後になってからのことであった。暢気といえば呑気だった。
集団遺伝学の勉強は木村先生の論文を主体としてホールデン、ライトを読み漁っていた。フィッシャーは難しくあまり観なかった。あるとき木村先生のプレプリントの論文(J Genet 57:21-34,1960)を読む機会があり、数値計算の誤りを見つけた。木村先生は謝辞に「T Yasudaが計算の誤りを指摘してくれた」と書いてくれてうれしかったのを覚えている。私の名はNorikazuだが、かなを振らなければTokuichiとだれでも最初そう読む。個人的なことだが、国民学校4年までTokuichiであったが、昭和20年1月に父が出征するときNorikazuに変えた。戸籍にはかなが振っていないので問題はないとか。父はその年3月に舞鶴海兵団でなくなった。話が脱線したが、とにかくどこかの部長、室長とははっきりとした有意の差がありますね。その後木村先生は、「集団遺伝学概論」培風館(昭和35年9月)を著し、その一部をいただいた。半年位で読み上げたと思う。
そのころ1958年(昭和33年)国際連合「科学委員会」報告書で放射線の遺伝的影響はもっぱらヒトゲノムの遺伝的荷重を測ることに専念していた。これはHJ Mullerの遺伝損傷(遺伝的荷重)という考えによるもので、「突然変異と選択がバランスしている状態で集団の遺伝的荷重は配偶子あたりの突然変異率に相当する」というホールデン・マラーの原理にある。突然変異率が上がればそれだけゲノム遺伝損傷が増えるわけで、放射線で突然変異率がどのくらい高くなるかは放射線の遺伝的影響の観点からリスク評価に必要な指標であった。その意味でも放医研のプロジェクトは社会的意義があったわけである。しかし当時プロジェクトを実行する意義についてこのコンセンサスがあったとは言い難い。とにかく放医研での遺伝研究部の存続がこのプロジェクトにかかっているのだと発破を掛けられた。それ以外は少なくとも実験計画に関与した者は蚊帳の外であった。自然突然変異率の2倍の突然変異率を誘発する放射線量を倍加線量というのも新しく覚えたことで、最初のそれは30レントゲンだった。今日これは100cGy(センチグレイ)である。倍加線量が高いほどリスクは小さくなる。また指標も配偶子あたりの遺伝的荷重でなくなり、遺伝性疾患の有病率が使われている。
その当時まで木村先生の論文を私なりに読み上げた頃、木村先生からウイスコンシン大学に行って遺伝学の勉強をしてこないかね、と話があった。よく聞くとDr. NE Morton助教授がPh.D.を目指す日本人学生を一人、ブラジルで調査を行うことも含めて採用したいとのことであった。木村先生もほぼ同じ時期にウイスコンシン大学の数理研究センターに行かれるとのことで、こんなにうれしかったことはない。君、英語は大丈夫かねと聞かれたことが不安材料ではあったが、これは実力相応としかいい様がなく現地に行ってすぐ化けの皮がはげた。遺伝研の人類遺伝部長の「松永 英」先生から、留学にあたり一週間のトレーニングを受けた。「平泉雄一郎」先生にお会いしたのもそのときが最初で、後にハワイ大学で文字通り先生・学生の立場でご一緒するとはそのときは考えてもいなかった。