第22回 帰国に際して – 遺伝研での仕事(06/01/2005)

6.12. 帰国に際して

1966(昭和41)年に国立遺伝学研究所に集団遺伝部第二研究室が発足することが決まり、それについて研究員2人が認可されたので私に来てもらいたい、との連絡が木村資生集団遺伝部長からあった。もう一人は丸山毅夫さんである。ブラジルへ行く前にPh.D.を取ったら考えるとおっしゃられていたのを覚えておられたのである。先生の誠実なお人柄に感激しました。もちろん喜んでお受けした。 赴任は10月1日となった。放医研の休職期間はPh.D.をとる以前にすでに切れており、すでに退職願を提出していた。止むを得ない処置とはいえ、公務員の職を離れるための一枚の紙への署名指紋押捺には一抹の寂しさがあった。

実のところ退職届を出す少しまえから、モートン教授から私のポストドクのポジションについて内々の打診があった。アメリカにポストを見つけることなど夢にも考えていなかったし、まだ学位論文をまとめるまでの時間に追われていたこともありこの私がそんな… ?といった気持ちの方が大きかった。モートン教授のオファーも次第に現実味を帯びてき、次のNIHのグラントに私を主任研究者として申請する準備すら始めていた。人類集団遺伝学の研究にハワイが如何に適した場所であるとか、私の将来性に何も問題はないとか、延いては日本に戻るよりアメリカに止まった方が私にとってどれだけ良いかを説くのであった。ブラジル調査データから解けそうな問題がバブルのように噴き出して来ており、面白い結果が多々得られそうであったこともあろう。平泉雄一郎先生は私が決めることだ、とおっしゃっておられたが立場はどちらかというとモートン教授に組みしていた。

結局のところ私自身が決断しなければならないことであり、三島の国立遺伝学研究所に行くことにした。モートン先生には申し訳なかったが、己の実力を知るが故での決断であった。アメリカに居続けることの不安の第一は引っ込み思案な性格と英語への自信の無さであろう。それに木村資生部長の集団遺伝研究部の一員になれるというのは私ごときにとってはこれ以上ない夢のような話しであったのだ。木村先生の遺伝現象を巧みにモデル化し、巧妙に高等数学を適用する技法には只ただ脱帽するしかない先入感が強すぎたのかも知れない。モートン教授も素晴らしい先生であるが、当時無我夢中で勉強していた私には当然過ぎてこれが普通であると思い込んでいたふしがある。資料と仮説を突き合わせて新事実を見出す能力には恐るべきものがあった。ちなみに、木村資生部長とモートン教授はPh D院生としてクロー先生についた同級生であった聞いている。

三島に着任してからもモートン教授からハワイに来ないかと度々手紙が届いていた。考えてみれば随分と勿体無い話である。私としては私なりに背伸びもせず、だからといって投げ出すのでなくそれなりに自分の道を選んだつもりである。

7.1. 遺伝研1期:三島の国立遺伝学研究所集団遺伝部

遺伝研坂下でバスを降り、遺伝研への坂道を歩いた。昭和41年10月1日である。ここの桜並木との対面も少なくとも5年の歳月が経っている。その後なにかの節目ごとに歩いており私にとっては感慨深い道である。放医研に入って間もなく、木村先生にお会いするために訪ねたときが最初である。確か静岡県で近親婚調査を行う計画の打ち合わせの会合があってその機会にご挨拶に伺った。帰りに名古屋市立大学の岸本鎌一先生と東京に用事があるとのことで同行させていただいたのだが、新橋第一ホテルがどこにあるかを尋ねられた。このような偉い人(精神病のドクター)と御一緒するのはなんだか晴れがましい気持であった。その頃の三島・東京間の所要時間は各駅停車で2時間半かかった。特急こだま(在来線軌道)が走っていたが科研費の予算ではとても乗れなかった。また遺伝研の特別研究生であった頃、中学・高校での親友N君が亡くなり通夜に駆け付けるため落ち着かない気持ちでこの坂を急ぎ足で下ったこともあった。菅原努先生に元気付けられたのを覚えている。丸山毅夫さんが1~2ヵ月後にウイスコンシンからやってきて二人で夕方市内へ食材を買いに行った帰り、遺伝研坂下でバスを降りハクサイを転がしたのもこの坂である。二人ともアメリカから帰ってまもなくのことで、遺伝研の構内宿舎で自炊をしていた頃の話である。

S字カーブを上りきるとまもなく遺伝研が見えてくる。本館中央の玄関を入り、目の前の階段を上ると2階に集団遺伝部の部屋があった。まだ東半分は昔のままの木造でコンクリート造りにするための工事が行われていたと思うが定かではない。1カ月後にやって来た丸山毅夫さんと一緒に2階の書籍倉庫の片隅に陣取り、その後完成した本館東の集団遺伝部の第二研究室に移った。木村資生先生からは、君はモートンのところに居たことだし統計を知っているだろうから「人類を含めた生物集団の数理統計に関する研究」を行うよう指導いただいた。また「研究者は自分で研究をするのだから」とよくおっしゃられ、まったく私の意志で研究テーマを選び実行するようサポートして頂いた。一人前の研究者として認めて頂いたことに大変感激した。実務的な事柄では秘書の松本百合子さんにお世話になった。辞令は木原均所長から「頑張ってください」と実験室で気軽に手渡された。

身近の木村先生は好奇心に溢れているというか、どんな些細なことでも真面目に観察され掘り下げて考えておられるのには頭が下がりました。どんな話題でも人の話はじっと聞いておられ、適切な質問をされた。そのうち納得のいく結論がでると的確なアドバイスをされるのです。もし話がおかしいと判断されると矢継ぎ早に質問をして、話している人が如何にいい加減なことを言っているかが当事者はもちろんそこにいる第三者にもわかるようになるので、そういう点では恐い先生でした。昼食を部員と会食をするのが常でした。そのとき様々な情報交換や研究の進捗状況を話し、意見の交換をするわけです。研究や事務の方針などもこのとき話合い、特に部会を開くことはありませんでした。もっとも少人数でしたからこれでも良かったのでしょう。

計算機言語FORTRANの講習会を丸山毅夫さんと2人で主催したことや、木村資生先生、松永英先生、太田朋子さん、丸山毅夫さんと私の5人で関数解析の本を輪読したことを覚えています。前者は集団遺伝部に導入する予定の電算機のユーザーを増やそうということで木村資生先生からの提案を実現したもので、後者は丸山毅夫さんが言い出し、賛同した人達が集まったものです。いずれも昼食会の話し合いの際に話しが出て決まったことでした。

遺伝研年報第19号(昭和43年)の巻頭言に所員の研究発表について木原均所長が苦言を呈しています。木原均先生はこの巻頭言を最後に、所長を退任されました。その後は森脇大五郎先生が国立遺伝学研究所の所長に就任されました。

  “論文は日本文で書く場合には特にその文章を推敲して欲しい。英文のとき

  は同種の論文を多数よんで表現法を習得してほしい。用語に誤りがないか、

  何度も調べてみること。自分の発見や意見は文章でのみ現在及び未来の人々

  に伝えられる。であるから論文は学者の生命である…。”

 

論文を書くことが学者の勝負どころであるのはいうまでもない。さらにメンデルの座右の銘

 

       ‘Wer nicht einsam kann, ist auch nicht versohnt mit sich.’

      (Who cannot be lonesome is not at peace with himself.)

も引用している。Saudade(孤愁)と通ずるところありとするのは私の思い過ごしであろうか。

7.2. 遺伝研での仕事

三島では結局3年過ごしたが、私の生涯でもっとも研究密度の高い期間となった。Morton NE教授のところで行った仕事をまとめたこと、新たに日本人の集団構造に関する研究を模索開始したことである。論文は合計9編書いた。

ハワイでの仕事の展開の一つとして、集団データからカウント法による遺伝子頻度の実用的な推定法を開発したことが挙げられよう。当時まだHLA多型を知らなかったが、ABO血液型でA、Bの他C、D、…と任意の共優性遺伝子があるときの推定法を工夫した。カウント法による推定値は統計学でいう最尤推定値であることが証明できるので、(最尤)カウント法は生物学的にも統計学的にも妥当な推定法といえる。大袈裟かも知れないが、HLA多型での遺伝子頻度推定という問題で従来の生物学であまり例がない理論が観察に先行したのは興味深い。この仕事を通じて東京医科歯科大学の中嶋八良先生を始め法医学の先生方と知己を得たのはこの頃である。日本人のいろいろな血液型や酵素多型を調べ、関与する対立遺伝子頻度を求める簡単な公式を探していた。もちろんALLTYPEソフトが活躍したのは言うまでもない。

当時の電算機利用は三島・東京間を郵便でカード束をやり取りする形で行われた。最初FORTRANリストとデータを指定用紙に書き込み東京の計算センターに送る。一行がカード1枚に相当するから、プログラムが大きいとカード束も大きくなる。送り返されて来たカードとリスト(アウトプットを含む)をみてデバギングをする。プログラムの訂正、修正を行い、再度東京へ送る。学会などで忙しいときには東京へ出掛けてデバギングするのだが、焦るとろくなことがないことが多かった。カードを床に落とせばリストを見ながらカードをまとめる大仕事となる。私の仕事はデータを伴うので結構思い違いやデータのパターンによる違いを処理するための汎用プログラムを工夫せざるを得ないので完成するまでにかなりの時間がかかった。お金もかかった!

集団構造の基本となるもう一つのパラメータに親縁係数(近交係数)がある。これは2個体が共通祖先の遺伝子に由来する対立遺伝子をもつ確率(あるいは一個体の相同対立遺伝子が何世代か前の共通祖先から由来する確率)で、2個体の血縁関係(1個体の相同遺伝子が互いに共通祖先のコピーである確率)をはかる尺度である。当時は学術調査という理由で市町村役場に申告すれば戸籍を閲覧することができた。したがって家系調査を行い近親婚の頻度を調べることができた。広島・長崎のABCC(現在の放射線影響研究所の前身)でDr Neel JVと Dr WJ Schullが被爆者調査をこの手法で行ったことを嚆矢として、当時の人類遺伝学会の学会発表では近親婚頻度の報告が流行していた。

私もこの調査を行ったが、その他苗字を利用する手法についても調査検討を始めた。この原理は、たとえばいとこには4つの亜型がありそのうち実の男兄弟の子ども達は同姓であるが、実の女姉妹のこども達と残りの2つの亜型の子ども達は必ずしも同姓ではない。したがって同姓婚姻率の1/4から親縁係数が、つまり近親婚率を求めることができるという訳である。もちろん偶然の同姓結婚もあるから、これの補正は必要となる。厳密には結婚にあたり男子は姓を変えないが、女子は変えるという前提がある。婿養子や地域の社会的慣習など文化的遺産伝達(たとえば家名の存続)の影響が考えられることもあるし、さらに庶民の姓氏は1875年明治政府により半ば強制的に国民皆姓を強いられたことも見逃せない。つまり庶民の姓の歴史が浅いので、高々4〜5世代位の先祖を遡ることができるにとどまる。この点では戸籍も同列である。姓氏についての文献が多々あるが源平籐橘など特定の姓氏の由来についてのものが大部分である。これがイギリス、イタリーのヨーロッパ諸国になるとカソリック教会の赦免状で10世紀頃まで系図が遡れる場合がある。

この他、血液型や酵素多型の集団データからハーデイ・ワインベルグ平衡からの偏りから親縁係数を評価する方法がある。私がブラジルのデータに適用したやり方である。これには多型のタイピングでの誤判定、標本数のサンプリング誤差、集団が不均一な亜グループの集合などいくつかの不明要因が寄与してくるので、真の親縁係数(近交係数)の値はまず得られないであろう。しかし2個体の出生地間の距離の違いによる親縁係数(あるいは個体の両親の出生地間距離:配偶者間距離)の相対的違いを評価することには意味がある。距離が大きくなると親縁(近交)係数は小さくなることがデータから観察されるが、マレコ−や木村による理論で得られているK曲線とはまったく合わない。ヒトの移動パターンは単純な平面上ではなく、婚姻には社会的文化的諸要因が多くありそう簡単には行かないのであろう。

昭和43年に第12回国際遺伝学会が東京プリンスホテルで行われ、その際の小シンポジウムの会場で未完ではあったがこれらの成果を発表した。Crow JF先生やWright S先生が木村資生先生を訪ねて三島に来られた。

国際会議の後、ハワイ大学で行われた「遺伝学における電子計算機使用についての国際会議」に出席し、その後2週間ホノルルに滞在した。電算機プログラムALLTYPEのアルゴリズムと実際の計算と適用できる多型の汎用性について発表した。好評であった。しかし今考えるとこの論文は一般学術雑誌に投稿すべきであったと考えている。シンポジウム発表はプロシーデングに必ず載り発表されるには間違いないが、論文をみてくれる人の数は数十人以下である。テーマによほど関心のある人が世界のどこかにいるかもしれないがその人数は高が知れている。一方、学術雑誌であれば不特定多数の人の眼にふれ、潜在的な読者数は学生や他分野の人等を考えただけでもプロシーデングとは比べ物にならないほどであろう。やっぱりそれぞれの分野で定番のよく知られた学術雑誌が最高である。論文の数の多いのはよいけれども、それは誰もが認める学術雑誌に載った論文の数が自分の評価をはかる一つの基準であろう。

曾ての諸先生や学生仲間やプログラマー達との話しがはずんだ。モートン先生は三島の状況を尋ね、安田はハワイに来た方がよいのだと。確かにハワイの方が何事も効率的であるのだが?小型ながら電算機も研究室の隣にあるし。組織が物心共にスムースに動くように配慮されている点で素晴らしいものがあるのが改めてわかった。平泉雄一郎先生は接待役でお忙しくしておられたのであまり話しをする機会はなかった。Dr. Cotterman CWに再会、Conbinatorial Geneticsの原稿を頂戴したがこの論文はとうとう公表されることはなかった。すでにU-1(Unpublished-1)というWisconsin大学の職員や院生に有名なレビュー論文を書いている前歴があるので、さしずめこの論文はU-2になったのであろうか?

イギリスのDrs Edwards AWFやEdwards Jとは小集団でのハーデイ・ワインベルグ平衡からのずれについて話しをする機会があった。量的形質の小島健一先生とも始めで最後のデスカッションをした記憶がある。先生は当時オースチンのテキサス大学の教授で、東京で行われた第12回国際遺伝学会に出席された帰り道にホノルルに寄られたのである。ちなみに太田朋子さんは小島健一先生のPh.D学生である。ハワイにはその後モートン先生の招待で度々訪れる機会があった。学生として留学していた頃と比較してポストドクあるいはvisiting fellow, visiting professorと身分は変わってもモートン先生の生徒であることには変わりはなかった。ただ、セクレタリーやプログラマーなどは会う機会ごとに私の成長とハワイでの“昇任”を喜んでくれた。