第10回 Tudor House – ブラジルで会った遺伝学者 (11/1/2003)

5.4. Tudor House

この賄い付きの下宿屋はイギリス系ブラジル人が経営しており、樹木の多い、静かな通りに所在していた。あまり遠くない距離に大きなイピランガ公園があり、週末にはよく散歩に出かけた。奥地探検家バンデイランテスbandeirantesの記念碑が公園の中央にあり、一直線に並んだ多数の顔が前方の空の一点を見つめ、勇躍前進する脈動感あふれる堂々たる大きな石造りの彫刻があった。

サンパウロ市民通りRua de Pauristaという大通りも近くで、街路樹も繁り散策に良い所であった。またサンパウロ大学医学部もその付近にあったように記憶している。大学の構内に野口英世の記念碑があったように思うが定かでない。そのときは何で野口英世がブラジルにと不思議な気がしたが、それは彼が黄熱病の研究でアフリカで亡くなったことは知識としてあったが南米まで来ていたとは気がつかなかったことによる。後にバイア大学医学部を訪れたところそこにも記念碑があったと記憶している。またダーウィンがガラパゴス諸島を訪れる前後にバイアや前にリオデジャネイロに足跡を残していたこともまったく思い掛けなかった。生物学を勉強し始めてまだ数年も経っていない。遺伝現象を理解するために数理統計を道具として役立てようと悪戦苦闘していたときであるから、ダーウィンがどの位凄い研究をしたのか、恥ずかしながら遺伝と進化の関わりなど当時全く無知であった。

下宿のマネージャーにしろ、部屋のハウスキーパーなど全体にもの静かで雰囲気は大いに気に入った。木造の3階建てで、私の部屋は階段を昇って3階の突き当たり、つまり一番奥の部屋であった。大きなダブルベット、丸いテーブルと椅子2つ、床にはカーペットが引いてあった。すこし古めかしい木製のクローゼットがあり、ホテルとはまた違った雰囲気である。窓からは中庭を隔てて、2階のバスルームが見え、必要なときは使用中かどうかを簡単に確かめることができたのはよかった。食事は朝晩一階の食堂まで降りる必要があった。シーツの取り替えや部屋の掃除はすべて下宿の方でしてもらった。テーブルなどの位置を変えると、仕事から帰って来ると必ずもとの位置に戻っていた。個人的な洗濯は頼めばして呉れたのだろうが、大抵のものは洗い場で自分で洗った。

休みの日の午前中はラボのデスカッションで取り上げられたテーマについて勉強することに当てた。時間の多くは実験ノートをみながら実習の復習と検討に費やされた。モートン先生の片言や仲間と交わしたポルトガル語を思い出しながら、何が問題でどういう答えが必要なのか、自分にできることは何なのか、丸テーブルを前にして整理することを常とした。東北地方の集団はアフリカ系ブラジル人、ポルトガル系ブラジル人、それにアメリインデアンの混血集団とみられるが、最尤法を用いる混血の程度を求める式を考案したのはその一例である。遺伝相談にまつわるリスク計算、PTC味盲のしきい値の決定、甲状腺肥大とPTCとの関連、遺伝マーカーの親子の不整合性など細かな問題は絶えまなくあった。後に学位論文の主題となった交配型の期待頻度の計算もそのうちの一つであった。モートン先生のやり方というか、指導の仕方は、絶えず問題を投げかけてきてそれに対する私の応答の様子をみる。私が乗り気でないと、それはそのまま冷却期間を置くが、ふとまた思い出したようにさり気なく尋ねてくる。食い付くような応答があると、矢継ぎ早に結果を尋ねて来る。What’s new? How is progress? ・・・のシャワーである。本当に問題は多岐にわたった。

フォーラム9の最後に触れた「交配型頻度」を遺伝子頻度と親縁係数で表す式もこのような状況で生まれた。集団遺伝学では特定の対立遺伝子頻度が世代(時間)の経過と共に変化して行く様子を「その確率密度」で調べる。(対立)遺伝子Aの頻度はデータから直接観察できるが、これは標本値で考察する集団での母数(期待値)ではない。母数はモデルとしての集団構造による。そのモデルの一例として「任意交配で親縁係数Fの有限集団」などがある。確率密度をφとすると、遺伝子頻度xの期待値pはp=∫xφdxという一次のモーメントで表される。二次のモ−メント∫x2φdxはこの場合のモデルではp2(1- F) +pF=p2+p(1- p)Fとなる。ここでFは2つの遺伝子が同祖的である確率である。モデルによりFは近交系数とも親縁系数ともなる。この場合はホモ接合体の頻度に相当する。これから遺伝子頻度の分散の期待値はσ2=p(1- p)Fと表せることがわかる。これはφが(p,σ2 )の2パラメータで表せる関数型なら、なんでもよいわけである。交配型の頻度は常染色体上の遺伝子座について二倍体の生物では2個体で合計4個の対立遺伝子が関与するから、四次のモーメントで表せることになる。性染色体の遺伝子座では三次のモーメントである。この詳しい結果は第16回の集団遺伝学講座に示してある。対立遺伝子が2つのときはベータ密度で十分だが、二項確率、ポアソン確率、一様確率、正規密度、ガンマ密度と2変数確率密度いずれでもp≫Fなら係数F2以上の項を無視できることがわかった。これは複対立遺伝子の場合にも拡張できる。近年法医学の分野、特に親子の識別でマイクロサテライトマーカーでpの値が小さく親縁係数Fがの方が大きくなる状況がしばしば表れるので、このアプローチでベータ確率を拡張した形のジリクレ確率が先験確率として用いられるようになった。このように集団構造のモデルが確率であらわすことができれば、あとはフィシャーの最尤法を用いてデータからパラメータpとFを推定することができる。この後のデータ解析はハワイでの仕事で行った。

実験ノートをみると1962年11月14日付けで、幾つかの確率密度について、モーメントの計算に取りかかっている。三次、四次のモーメントをFの級数で表わしているが、確率モデルにより有限項で終わっているのも、無限項まで続くのもある。今考えるとジリクレ密度は集団構造を表すモデルが十分目的を果たす程度に近似していることがわかる。確率密度が生物学上どういう意味があるのかという疑問に答えることができたこと、そのモデルを実験データでテストできるように工夫したことなどの意義は大きいと思う。これで学位論文のテーマは決まった。あとはモデルの妥当性をデータと突き合わせてその有効性を検討することある。これには後にハワイで3年余を費やして結果をだした。

5.5. ブラジルで会った遺伝学者

最初に会ったのはDr. F. Ottensooserという免疫学者である。ブラジルの植物の種子から血球抗原を探す研究をしていた。移民局のラボがセットアップしてまもなく視察にやって來た。規模の大きさや多くの血清が用いられているのをみて、いいですねSou com inveja!を連発していた。一緒にきた佐藤麿人さんという日本人(多分、実験助手)が、彼のラボの様子を話してくれましたが、研究費などたいへんなようでした。オッテンさんはかなり早くから赤血球多型の研究に従事しており、混血の割合を求める式などを工夫したりした、とのことでした。かなりの年輩とお見受けした。佐藤さんはその後日本に戻り、予研にいたよう(?)で、しばらく年賀状などをやりとりしましたが、その後会っていません。私が再度放医研に奉職した頃の話です。

サンパウロ州の南隣のパラナ州の州都クリチバのクリチバ大学で、日にちは忘れましたが、ブラジル遺伝学会が開催され、モートン先生と共に出席した。もっとも先生は招待されたのでしょう。この会議にはJV Neel 博士も参加されて、はからずも当時の人類集団遺伝学の二人の巨人の講演をまとめて拝聴する機会に恵まれたわけです。モートン先生の話しは移民局での仕事の意義、目的、規模と当時進行していた事柄を ”ポルトガル語” で話しました。ポルトガル語の学習はウィスコンシンで私と同時に始めたのですが、閊えることなく話されたのにはびっくりしました。その後、ニ−ル博士が、私はポルトガル語ではしゃべれないので、英語で話すことをお許し下さい、と冒頭に言われたのを覚えています。彼も、アマゾン河流域のヤノママ・インデアンの調査を始めており、その計画の内容と進行状況についての話しをしました。

アでマールの兄さんのニュートン・フレイレ-マイア博士Dr. Newton Freire-Maiaが盛んに遺伝的荷重のことを両巨人に質問していたのが思い出される。負の遺伝的荷重とはどういう意味があるのか?など聞いていた。カー博士Dr. KE Kerrに御会いしたのもこの会場でした。彼の方から、私に声をかけて来ました。かれはかってS Wright先生のところでPh.D.を取った人です。ショウジョウバエ集団を用いて、遺伝的浮動と相加的淘汰の作用があるときの遺伝子頻度の継代的変化の実験的研究は木村先生がよく引用されていたので、私は論文と名前だけを知っていました。名前からブラジルの人とは考えてもいませんでしたので、私にとってこれは奇遇でした。その後、彼の名前は雑誌Nature上で遭遇しました。アフリカ産の多量の蜜を産生するハチが彼のラボから逃げ出したという記事です。問題はこのハチが強烈なハリを持っていることで、記事にはこれでやられると人もひとたまりもなく死んでしまうとのことで、殺人バチとして恐れられていること。逃亡ハチは次第に南アメリカ大陸を北上して、もうヴェネズエラまで到達したとか。この調子でいくと北アメリカ大陸に到達するのはまもなくである。その後の話しは知らないが、Dr. KE Kerrはハチの専門誌にハチの遺伝的荷重を計算した論文を発表したのを、木村先生から教わった。

ブラジルの遺伝学者ではDr. C. Pavanにも挨拶する機会があった。この学者はProfessor Catedratico (カテドラチコ)の称号を持つ偉い大学教授で、ブラジルでこの称号を持つ人は数少ないと聞きました。巷の話しでは正しいポルトガル語の読み書き会話の試験にパスすることがこの資格を得る必要条件だとか。母国語のテストがカテドラチコの資格をとるのにパスしなければならないとは、まったくとほほ!専門がなんであれ必須とか。ちなみに、ポルトガル語の文法はかなり難しいとのこと。私などはほんの半年、初級を齧っただけですので、その難易度はわかりません!アメリカはもちろん日本において教授になるのに母国語に試験などないのが普通ない。

こういった人たちはおそらく木村先生の論文を読んだことで、私の記憶にあったのかも知れない。フロタ・ペソア博士はサンパウロ大学理学部で何度か御会いした。彼はきょうだいの大きさ、男女の結婚適齢期などの人口動態統計をもちいて近親婚の割合を求める方法についての仕事がある。サンパウロ大学理学部はサンパウロの郊外にある。近くにはブタンタン蛇毒研究所があり、理学部にはあまり行かなかったが蛇の研究所には何度か見に行った。広い窪地に蛇が放し飼いにしてあり、窪地の周りは肩の高さぐらいの石塀で、中を上から覗き込めるような構造になっていた。蛇の動きはぬるぬるした感じのするもので、あまり気持ちの良いものではない。窪地の隅のまわりにずいぶんと集まっていたような記憶がある。彼等も日射しは避けていたようである。結構見物人が覗き込んでおり、管理人が窪地に入り、長い棒に蛇を巻き付かせて高々と掲げたりしていた。多くは7〜8メートルはあったかも知れない。近くに実験棟があり、その一部を見学者に解放していた。比較的小さなへびがガラス越しに覗けるようになっていた。真っ赤、真黄、毒々しい赤と黒の輪あるいは点々と混ざる蛇、いろいろである。一回で採取できる蛇毒は多くないが、日常蛇に咬まれる人になんとか間に合う量の血清は産出しているとの話しである。ブラジルは広いし、交通の不便なところで事故はおきるので、蛇に咬まれて死ぬ人は結構いるらしい。さそりもいた。こいつは夜間に靴の中へ入り込むので、朝 くつ を逆さまにして中を払い出さないでうっかり足を突っ込むとやられる、とたまたま同じく覗き込んでいた見物人が話していた。実害があったのか、身体を震わせてhorrivel(恐ろしい)と指差しながら繰り返していた。さそりは人家の中に入ってくるので、被害は結構あるらしい。

Dr. CW Cottermanがウィスコンシンから移民局にやってきた。グリーンラボ、レッドラボの試験管立てなど小道具の多くのデザインは彼のアイデアによる。それらがうまく機能しているかどうかひと回りうれしそうに確認していた。いつのまにか居なくなったが、おそらく植物の種探しにでも行ったのかどうか。