第1回 はじめに(8/13/2001)

1. はじめに(8/13/2001)弧 愁 Saudade 筑波霊長類実験センター客員研究員 安田徳一

saudade(サウダーデ)はローマ字ポ和辞典(坂根茂・日向ノエミア著、柏書房)によると、「郷愁」、「懐かしさ」、「やるせない思い出」とある。これを弧愁と訳したのは作家の新田次郎さんと記憶しているが、岩波の国語辞典第六版には弧愁の説明として「ただひとりでいることのさびしさやかなしさ」とある。私にとっては「ひとりしずかに思うやるせない思い出」とでもいうのであって、ノスタルジアとは違う。還暦も6年前のことになり、自分の過去を振り返り私の研究の経歴を思うときブラジル人のこの繊細な言葉がぴったりのようである。
年に一度、霊長類センターへは寺尾さんを訪ねて昼食をはさみ互いの近況を交歓することにしている。今年も例年のように酒々井から我孫子経由で「ひたちのうしく」に着くと、元気な顔をみることができた。筑波もようやくみどりが濃くなり、かっての人工都市も住み勝手がよくなったのではとふと思った。生憎の曇り空で雨もちらほら降る按配であったが、近況を話合いながらセンターについた。寺尾さんから思いもかけず、私の外国生活のことをフォーラムに書いてはとの話があり、自分もそんな年柄でもないがとも考えつつも何か書いてみようという気になった。彼は話上手である。手前味噌の話になるが、学部の数学科を卒業した私は遺伝学で生涯「めし」を食べることになったが、そのトランスフォーメーションの時期がアメリカおよびブラジル留学であったわけである。
私は早稲田大学第一理工学部数学科を昭和33年3月に卒業した。別に数学が好きで入学したわけでなく、1年浪人したあと何となく受験してしまったのである。結果論であるが、高校の担任「菅井秀雄」先生が数学で、なんとなく相性がよくてというと失礼にあたるかも知れないが、数学とくに解析幾何が面白かったからかもしれない。高校の頃は国語も面白く先生のまん前の席に座って一生懸命勉強したつもりである。ちなみに国語に興味をもたせていただいたのは「栗原芙蓉」先生であった。定年後は源氏物語を原文でぽつぽつ読んでいるのも先生の影響が残っているのかもしれない。
大学入試は私の人生でまったくミゼラブルな体験で、特に浪人の一年間はまさにウエストオブタイムであった。勉強の仕方がわからないで勉強する苦しさ、暗記をするにも断片的な知識では無駄ではないでしょうがまとまりがなく、時間ばかり過ぎて行き、あせるばかり。本人にも問題があったのでしょうが、学校での勉強と受験勉強がかみ合わずなさけない思いをしました。その意味で早稲田に受かったのはまぐれにせよ、本当は運があったといえましょう。この勉強の仕方については後にアメリカの大学で学びました。それについてはいずれお話することにします。
大学では「代数学」に興味を持ちました。数学の何たるかを知らずに数学の片鱗に触れたわけですから、ユークリッド幾何にある公理が代数学にもあることにびっくりしたことを覚えています。学部3年のとき「確率・統計」の講義を東京工業大学の「国沢清典」先生から受けました。先生と河田龍夫先生の共著の「現代統計学」上下、広川書店(昭和31年)をテキストとして数理統計の基礎を学びました。大学入試で懲りていましたから、実務的にも役に立つと考えいろいろと調べてみました。当時数学科の卒業生は中学か高校の数学教師になるか、保険数理屋になるか売れ口がなかったようでした。しかし、国家公務員試験に統計数理というのがあって、それに受かれば総理府統計局という役所や文部省統計数理研究所などがわずかながらも可能性のあるポストがあることを知りました。めくら蛇に怖じずで結局はどちらも駄目でしたが、すくなくとも卒業までの2年間目標を立てて勉強をしました。数学科の学部4年は卒業論文がなくて、卒業研究と称して選んだ分野の名著を輪読セミナーをすることが必須でした。6人のメンバーでしたが小林 正先生の指導でCramer H, Mathematical Method of Statistics (Prinston University Press,1946)を読みました。正確にはどのくらい理解会得したのか自信がありませんでしたが、当時はわかったような気持ちでいたことはたしかです。メンデルの分離の法則や独立の法則がカイ二乗検定の例題としてあったのを不思議な気持ちで受け止めたのを覚えています。数学と生物学がいかにも不釣合いだったからです。もっとも共立全書の宇野利雄さんの数理統計学演習(1955)にもABO血液型の遺伝子頻度の推定とカイ二乗検定の問題がありましたけど、数学サイドの問題としてでありそれらの生物学についてはなく、私も当時は生物学のことについては考えることもしませんでした。
まじめに2年間目標をもって勉強したおかげで公務員試験にパスしました。グループの他の2人も受かっていましたので、お互いにかなり密度の濃い勉強をしたためでしょう。大学入試はまぐれと思いましたが、公務員試験はそうではなかったと今でも思っています。昭和33年の就職状況はコンピュータの風が吹いたといわれるくらいで、前年度に比べて数学科卒業生にはよかったようです。同級生の多くがソフト開発で今でも著名な企業に就職していきました。時流に乗るのが下手というのか、私はいくつかの官庁の面接試験を受けましたが、結局その当時新設の科学技術庁の放射線医学総合研究所に採用されました。