人獣共通感染症連続講座 第81回 異種移植とブタ内在性レトロウイルス 異種移植の経験のある人での追跡研究の報告

(8/21/99)

異種移植の臨床試験に向けて欧米では活発な議論が行われています。 その中でもっとも大きな問題としてとりあげられているのはブタ内在性レトロウイルスがブタの臓器の移植を受けた患者に感染し、患者に癌、免疫不全など思いがけない病気を起こすことはないか、さらにそのウイルスが患者の家族や医療従事者に感染を広げることはないか、また最悪の場合には社会に広げることはないかといった議論です。

ブタ内在性レトロウイルスはおそらく数百万年前にブタの染色体に組み込まれたもので、ほとんどはウイルスの遺伝子の一部でいわばウイルスの化石のようなものですが、中には完全なウイルス遺伝子を保有していて感染性ウイルスを放出するものがあります。 そのようなブタ内在性レトロウイルスとしてこれまでに7株が分離されており、エンベロープ遺伝子の構造から3つのタイプに分けられています。

そのうちのあるものは試験管内で培養した人の細胞に感染を起こすことから人の身体の中でも増殖する可能性があるという問題が提起されています。 しかし、試験管内の細胞での増殖が人の身体での増殖性を必ずしも証明するものではありません。 あるウイルスが人に感染するかどうかを知ることは、人で確かめるしか方法はありません。 といっても人への接種実験をするわけにはいきません。

この問題へのアプローチとして考えられているのは、移植や体外潅流などの医療でブタの臓器、組織、細胞にさらされたことのある人について、ブタ内在性レトロウイルス感染の有無を調べることです。 すでにCDCのグループはスウェーデンでブタ胎児の膵臓細胞の移植を受けた10名の糖尿病患者について、またブタ内在性レトロウイルスの危険性を最初に細胞接種実験で指摘した英国のロビン・ワイスのグループはブタの腎臓による体外潅流を受けた2名の腎臓透析患者について調べた結果、ブタ内在性レトロウイルス感染の証拠が見いだせなかったことを報告しています。

異種移植の開発の最先端にある英国のイムトラン社は親会社のノバルテイス社とともに、同様にブタの臓器、組織、細胞にさらされたことのある160名という多数の患者について大がかりな調査研究を行ってきました。

この研究については丁度、1年前の本講座(第65回)ですでにご紹介しました。 この大規模な研究の結果がまとまり8月20日発行のサイエンス誌に発表されました。 その結果は160名でブタ内在性レトロウイルス感染の証拠はみいだせなかったということで、朝日新聞8月20日の夕刊にワシントン特派員の辻篤子記者(元アエラ編集長)により簡単に紹介されています。 この研究の結果について、もう少しくわしい内容を私なりにまとめてみようと思います。 専門的すぎるところは飛ばして読んでいただいて結構です。

サイエンスの論文はカズ・パラデイスKhazal Paradis (イムトラン社の臨床研究部長)、が筆頭著者で、ほかにQ-One Biotech (英国にあるベンチャー)、Genetic Therapeutics Inc (GTI)、CDCの人たちが加わっています。 Q-One Biotech とGTIはいずれもノバルテイス社の傘下です。 GTIは遺伝子治療の最初のベンチャーで、北海道で行われた遺伝子治療はここの協力で行われています。 これらの研究機関はいずれもレトロウイルス検出技術で最先端のところです。

患者の内訳は脾臓の体外潅流100名(ロシア)、皮膚移植15名(ドイツ)、膵臓細胞移植14名(スウェーデン、ニュージーランド)、バイオ人工肝臓の体外潅流28名(フランス、米国、イスラエル)、腎臓の体外還流2名(スウェーデン)、肝臓の体外潅流1名(カナダ)、の計160名で文書によるインフォームド・コンセントをとった後、血液と唾液が採取されました。 これらの患者の背景については第65回の講座でも簡単に触れていますので、参照してください。

ブタ内在性レトロウイルス感染の証拠はウイルス遺伝子、ウイルス粒子、抗ウイルス抗体の3つの面から調べています。 ウイルス遺伝子はポリメラーゼ・チェーン反応(PCR)によるウイルスDNA の検出、ウイルス粒子は逆転写ーPCRによるウイルスRNAの検出、抗体はウエスタン・ブロットでのgag蛋白に対する抗体の検出で行いました。

ウイルスの検出感度は50万個の細胞にウイルスDNA1コピーが検出できる、非常に高い感度です。 ここで問題になるのは、マイクロキメリズムです。 これはブタの細胞が人の血液の中に混在している状態、すなわち血液キメラです。 なお、人の臓器移植でもドナー由来の細胞によるマイクロキメリズムは起こります。 もしもブタの細胞にレトロウイルスが存在していると、人の細胞に感染していなくても、高い感度の検査ではこのレトロウイルスも検出されてしまいます。 したがってレトロウイルスが検出された場合に、ブタの細胞の中のものか、人に感染したものかを区別することが必要です。 そのために、マイクロキメリズムがあるかどうか、すなわち血液中にブタの細胞が存在しているかどうかをまず調べます。 これにはブタの染色体のセントロメアのDNA配列とミトコンドリアDNA配列をPCRで調べ、もしもレトロウイルスDNAが検出されたならば、レトロウイルスDNAの量とミトコンドリアDNAの量の比を求めて、それが通常のブタの場合と同じであればマイクロキメリズムによるレトロウイルスDNA、その比が有意に大きければ人細胞への感染とみなします。

このような実験計画で調査を行った結果、160名のいずれにも感染の証拠はみられませんでした。 4名が抗体陽性でしたが、そのうちの2名は移植を受けた際の血清が保存されていて、この時点ですでに陽性でした。 ほかの2名は以前の血清が保存されていませんでしたが、ウイルスDNA、ウイルス粒子のいずれも陰性でした。 おそらく以前から抗体があったか、無関係の抗原との交差反応によるものと判断されています。

160名の中には薬剤による免疫抑制を受けていた人が36名います。 また23名ではマイクロキメリズム、すなわち血液中にブタの細胞の存在がみつかっています。 中には8年以上前に処置を受けた人も含まれています。 これらの人を含めて、160名すべてが陰性という結果でした。

この結果を受けてイムトラン社では十分な安全対策を考慮した限定的な臨床試験の準備を開始するものと思われます。