人獣共通感染症連続講座 第131回 BSEの原因としての有機リン説と自己免疫説

(6/16/02)

BSEの原因としての有機リン説と自己免疫説

BSEの起源がヒツジのスクレイピー由来かウシ由来かについては、結論は出ていません。しかし、プリオンが病原体であって、餌としてウシに与えられた肉骨粉で広がったという点は広く受け入れられているとみなせます。現実に、BSEおよび変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)に対する安全対策はプリオン説にもとづいて実施されてきており、英国のBSEが激減している事実も、この考え方を支持しています。
しかし、BSEの原因はプリオンではないという説も提唱されています。有機リン系殺虫剤説と自己免疫説です。この2つの説は2000年に発表された英国政府のBSE調査委員会(委員長アンドリュー・フィリップスAndrew Phillips)の膨大な報告書と、BSE起源に関する調査委員会(委員長ガブリエル・ホーンGabriel Horn)の報告書で取り上げられています。それらを参考にして2つの説が現在どのように受け止められているか述べてみます。

1. 有機リン系殺虫剤説
1980年代から有機リンの農業での使用に反対のキャンペーンを行ってきた酪農家のマーク・パーディMark Purdyが提唱したものです。1988年に農業雑誌に発表してから、ヨーロッパでは有名になりました。しかし、日本ではこれまでBSEへの関心がなかったため、ほとんど知られていませんでした。最近になって、有機農法との関連で急に注目されはじめたようです。
2000年に発表された英国政府のBSE調査委員会(委員長フィリップス卿)の報告書では、有機リン説もBSEの原因とは考えられないとしています。しかし、細胞のプリオン感染への感受性に有機リンが影響するかもしれないと述べています。
その後、2001年のBSE起源についての調査委員会(委員長ガブリエル・ホーン教授)、およびEU科学運営委員会の「BSE起源と伝播に関する仮説に関する見解」のいずれもが、フィリップス委員会と同じ見解を発表しています。
これらの委員会報告の要旨を整理してみます。

1)有機リン原因説は1980年代から有機リンの農薬使用に反対のキャンペーンを行ってきたマーク・パーディが提唱したもので、ウシバエ駆除のための有機リン系殺虫剤フォスメットの使用とBSE発生状況との時期的関連にもとづいたものでした。しかし、発生状況の疫学的所見との間には、以下のように明らかな関連は見いだされていません。
英国でフォスメットが使用され始めたのは1960年代で、ウシバエ撲滅計画が開始されたのは1978年です。1982年にはウシバエは届け出疾病に指定され、ウシバエの発生率は激減して1%以下になっていました。BSEウシのほとんどは1982年以後に生まれたものであって、これらのウシに対してフォスメットはまったく用いられていないと言われています。

2)英仏海峡にあるチャネル諸島のガーンジー島では政府のウシバエ撲滅キャンペーンが実施されなかったのにBSE発生数は669例、一方、キャンペーンが行われたジャージー島ではわずかに138例です。これに対してパーディ氏は別の説明として土壌中のミネラル含量の違いが関係していると主張していますが、土壌についてそのような違いを見つけることは困難と言われています。

3)BSEのプリオン原因説が広く支持されるようになってから、パーディは仮説を修正して、プリオン蛋白などの代謝経路が有機リンにより影響を受けると主張するようになりました。彼の仮説を調べる目的で1995年に英国医学研究協議会(Medical Research Council: MRC)は有機リンがプリオン蛋白に結合するかどうかを実験した結果、結合は見られませんでした。この成績に対して、パーディは用いた有機リンがフォスメットとは組成が異なると反論しています。
1998年には試験管内でプリオン蛋白を産生している神経細胞にフォスメットを加える実験が行われました。その結果、細胞表面のプリオン蛋白の量が増加はしたものの、メッセンジャーRNAのレベルに変化は見られませんでした。その結果、有機リンがBSEの原因という仮説の証明はできませんでした。ただし、細胞のプリオン感受性を有機リンが修飾する可能性はあるかもしれないというフィリップス委員会のコメントにつながったのです。

4)パーディは2000年にはマンガンの過剰と銅、セレン、鉄、亜鉛の欠如がBSEの広がり(そしておそらくBSE)の原因と提唱しています。しかし、BSEの発生と制圧のパターンには一致していません。また、表土中の銅の含量が低くマンガンが多い地域とBSE分布も一致しません。

5)肉牛の大部分は牧草で育つため、銅、モリブデン、セレン、マンガンのアンバランスにさらされており、したがって有機リン説にしたがえば、肉牛では乳牛よりもBSE発生率の高いことが推測されます。しかし、現実にはBSE発生率は乳牛が80%、肉牛が20%です。
以上の見解を総合すると、有機リン説を支持する科学的証拠は得られていないとみなせます。

2.自己免疫説 
自己免疫病の代表的なものにはリューマチなどの膠原病などがあります。いずれも自分の身体の構成成分に対する免疫反応により発病すると考えられています。本来、自己成分には免疫は成立しないのに、自己免疫病が起こる原因のひとつに、ウイルスや細菌に感染した際に、その構成蛋白が身体の構成成分と共通抗原性を持っていると、それに対する免疫が身体を攻撃するようになる場合が推測されています。
BSEの原因として自己免疫説が提唱されたきっかけは、英国家畜衛生研究所のデイヴィッド・テイラーDavid Taylorが1996年に発表した、スクレイピーはマウスの皮膚をひっかいただけで感染するが、免疫不全のマウスでは感染しないという論文です。これは免疫系がスクレイピーの体内伝播に必要ということを示唆したものでしたが、ロンドン大学キングス・カレッジ免疫学講座のアラン・エブリンガーAlan Ebringer教授は別の解釈をしたのです。
彼は神経組織と共通の抗原性を示すものがウシの餌に含まれていて、それがアシネトバクターAcinetobacterという細菌であることを見いだしました。また、大腸菌にも同様に神経組織と共通の抗原性を示す成分があると言っています。そこで、これらが腸管から取り込まれた結果、神経組織に対する免疫が成立して、それがBSEを起こすと提唱したのです。
しかし、BSEと自己免疫病とはあまりにも異なっています。自己免疫病では炎症がありますが、BSEには炎症はまったくありません。また、細菌ならば普通の処理で簡単に不活化できます。その他、いくつかの証拠から自己免疫説については、前述の3つの委員会報告すべてがまったく科学的根拠はないと否定しています。
しかし、前回の講座(128回)で取り上げたスイスのバーゼルでのシンポジウムでは、この説の強力な支持者らしいインスブルックのローランド・ペヒラナーRoland Pechlaner教授が何回も質疑応答の際に立ち上がっては、この説を繰り返し強調していました。彼のおかげで討論時間がかなり費やされてしまい、座長が最後には自己免疫説についての意見であれば遠慮してもらうとまで言っていました。彼はさらに休憩時間にドイツの農業大臣あての手書きの手紙なども含めた分厚い資料のコピーを参加者に配っていました。もっとも、ほとんどはドイツ語でした。
なお、英国政府の海綿状諮問委員会(Spongiform Encephalopathy Advisory Committee: SEAC)は2002年2月に開かれた第72回会議で自己免疫説を議題のひとつに取り上げ、エブリンガー教授の見解を聞きました。その結果、彼の理論はBSEの起源を説明するものではないと結論しています。ただし、アシネトバクターに対する抗体は生前診断のマーカーに利用しうる可能性はあるかもしれないとしています。もっとも、BSEウシでこの細菌に対する抗体が見つかる頻度は70%という成績であるため、はたしてBSEウシを検出しうるかどうか疑問視もしています。