人獣共通感染症連続講座 第13回 ボリビア出血熱の発生の背景と制圧の経緯

(8/12/95)

ボリビア出血熱の病原体、マチュポウイルス(Machupo virus) はアレナウイルス科に属します。 このグループのウイルスで最初にみつかったのはリンパ球性脈絡髄膜炎(LCM)ウイルスです。 1933年にセントルイス脳炎が疑われた患者の髄液から分離されたものです。 これはマウスで自然感染を起こして実験動物関係者の間で良く知られていますし、また、マウスで多彩な病気を引き起こすことから免疫学の研究ではもっとも広く利用されているものです。 次に分離されたのは(1957年)、アルゼンチン出血熱の病原体フニンウイルス(Junin virus)です。 これについては本講座(第9回)で発生の背景を簡単に説明しました。

今回、取り上げるボリビア出血熱病原体マチュポウイルスは1964年に分離されたものです。 なお、この後、1969年にアフリカで発生したラッサ熱の病原体ラッサウイルスもアレナウイルス科に属します。

以上がこれまでに分離された主なアレナウイルスですが、最近米国のニワトリで新しいアレナウイルスによる病気の流行が明らかになりました。 これについてはすでに2つほど報告があり、さらにこの研究担当者から近日中に私のところに、もっと詳しい資料が送られることになっていますので、内容次第ではいずれご紹介できると思います。

今回はボリビア出血熱の発生の背景と、その制圧の経緯についてお話しします。 これもまた、非常にドラマテイックな内容です。

1960年代初めからボリビアのサンホアキン地方で原因不明の出血熱が流行していました。 1962~64年の間にサンホアキン地方の住民の40%以上が発病し、10~20%が死亡しました。 この病気の原因解明にあたったのは、後にラッサ熱、エボラ出血熱などで活躍したCDCのカール・ジョンソンです。 彼はパナマ運河地域の中南米研究ユニット(Middle America Research Unit)のロン・マッケンジーと一緒にボリビアに1963年5月に到着しました。 最初、昆虫がキャリアではないかと疑い、昆虫の収集を7月初めに行っていました。 その際にまずマッケンジーが発病し、ついでパナマ人の助手が発病しました。 そして、ジョンソンが発病し、パナマのゴルガス病院に3人が枕を並べることになりました。

彼の看護にワシントンD.C. から軍医と彼のフィアンセでCDCの研究者でもあるパット・ウエッブPat Webbが派遣されてきました。 彼の回復後、米国に戻ったウエッブは機内で発病しNIHの病院に入院しました。

1963年9月から1964年11月の間、今度はウエッブも加わったジョンソンのチームは米国とサンホアキン、それとパナマにある彼らの研究所の間を往復していました。 1964年の夏にハムスターへの接種実験の成績を調べていた際に親のハムスターの尿から新生児ハムスターに感染が起きていることをみつけました。 のねずみでも同じことが起きているのではないかと考え、のねずみを捕獲して調べたところ、サンホアキンで捕獲したのねずみの尿の中にウイルスが排出されていることを見いだしました。

そこでサンホアキンに戻り、ねずみとりを仕掛けたところ、2週間後には同じ町の中でねずみとりを設置した場所では新しい患者の発生がなく、設置しなかった場所では患者の発生が続いているという非常にはっきりした成績が得られました。

18か月間で原因ウイルスを分離し、ウイルス伝播の様式を明らかにし、実際に伝播を止めることに成功したわけです。

ウイルスの自然宿主となっていたのねずみはCalomys callosusです。これの日本名がブラジルヨルマウスということは、この講座を通じて宮崎医大の土屋先生から教えていただきました。

ボリビア出血熱の流行の背景は1952年のボリビア革命にさかのぼります。 社会革命の結果、サンホアキン地方の人達は突然、雇い主を失い、安定した食糧供給が得られなくなりました。 そしてマチュポ河(マチュポウイルスの名前の由来になったものです)のまわりの比較的平坦な土地でとうもろこし、野菜などの栽培を始めました。 この場所はブラジルヨルマウスの生息地であり、無意識のうちに彼らの生息地に侵入することになったわけです。 しかも彼らにとってすばらしい食糧を供給することにもなりました。 1950年代にはのねずみの数は増加し、1960年代にサンホアキンの町に侵入していきました。 この時が最初の出血熱の発生に一致しています。

ジョンソンによればサンホアキンの町は新世界最後のフロンテイアのようで、道路、保健施設、電話、水道などまったくなく、牛の数は人口の2倍以上で町中を歩き回っていました。 不思議なことに町には猫がまったく見当たりませんでした。 この頃、マラリア対策でDDTの大量散布が行われていましたので、猫の死亡の原因がDDT なのか、マチュポウイルスなのか、それとも両者が加わったためかといった作業仮説にもとづいた研究も始められましたが、流行が終息したことからNIHの研究費が中止され、この研究も終わりとなりました。

この流行の際に米陸軍のひとりの軍人が感染し、危篤におちいりました。 解剖の準備が始められたほどでした。 先に述べたマッケンジーが彼の血液の中に抗体が含まれていることを期待して、約500mlの血液を投与したところ、抗体が本当に効いたのかどうかは分かりませんが、翌日には回復しはじめました。 これがアレナウイルス感染での血清療法の最初です。 後にアルボウイルス研究で有名なエール大学のジョルデイ・カザルスJordi Casalsがラッサ熱に感染し、危篤になった時にナイジェリアでラッサ熱に感染し、米国の病院で回復した看護婦ピネオの血液を投与すべきかどうかが議論になりました(この経緯は宮祐二訳:熱病、立風書房に詳しく述べられています)。 その際に、カール・ジョンソンが投与を決断させたのは、この時の経験に基づいたものでした。 その後、ラッサ熱では発病の初期には血清療法が効果のあることが確かめられています。 なお、現在ではラッサ熱の治療には血清療法ではなく、リバビリンが用いられています。

(参考書:Laurie Garrett: The coming plague, 1994; G.W. Beran (editor): Handbook of Zoonoses, Second Edition, Section B, 1994)