46.天然痘のリスク(1)

(社)予防衛生協会 元理事
東京大学名誉教授
山内一也

(1)保管されている天然痘ウイルス

天然痘は1980年WHOにより地球上から根絶されたことが確認された。しかし、病気はなくなっても天然痘ウイルスは現在も米国疾病制圧予防センター(CDC)とロシアの国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究所(通称:Vector)で保管されており、さらに前回の記事で紹介したように、60年間冷蔵庫の中に忘れ去られていた天然痘ウイルスが見つかった。ほかにもあるかもしれない。

種痘の免疫効果は数年でなくなるので、現在、天然痘に免疫のある人は皆無に近い。天然痘により滅亡した16世紀のアステカ帝国と同じ状態といえる。しかも天然痘ウイルスはテロリストにとっては、最高の生物兵器である。炭疽菌などと異なり、種痘を行っていれば自分が感染する心配がなく人知れず容易に散布でき、社会全体に壊滅的影響を及ぼすことができるのである。

現在、新型インフルエンザにおけるリスク管理が重要な課題になっているが、天然痘発生の際のリスク管理は、海外でごく一部の人たちの間で真剣に議論されているに過ぎない。2回のシリーズでこの問題を考えてみる。

WHO総会における天然痘ウイルス廃棄をめぐる混迷

天然痘根絶が近づいた1970年代、実験室からの天然痘ウイルスの漏出が相次いで起きた。1984年にWHOは加盟国に天然痘ウイルスの保有を禁止し、不活化するか、CDCとモスクワのウイルス製剤研究所に移管するよう要請した。なお、モスクワのウイルスは1994年にVectorに移されている。CDCには国立予防衛生研究所(現・感染症研究所)のウイルスを含む450サンプル、Vectorには世界各国からの150のサンプルが保管された1

これらのウイルスは、ゲノム(全遺伝子情報)の解読が終わり次第、すべて廃棄されることになっていた。1991年には天然痘ウイルス・ラヒマ株(1975年にバングラデシュで見つかった最後の大痘瘡*患者ラヒマ・バヌーから分離)のゲノム解析が終わり廃棄の条件は整った。しかし、1994年の WHO総会は廃棄を1995年まで延期し、1995年総会は科学者の間のコンセンサスが得られていないという理由で1999年までまた延期した。ところが、1999年総会の直前、米国政府の諮問を受けた医学協議会は「天然痘ウイルスの将来と科学研究への必要性の評価」という報告書で、天然痘ウイルスによるバイオテロ対策として抗ウイルス剤およびワクチン開発のために天然痘ウイルスは必要と結論した。これを受けてクリントン大統領はそれまでの方針を撤回して廃棄の延期を求めた。ロシアは元々廃棄に反対だったので、廃棄は2002年まで暫定的に延期された。

*天然痘には致死率20%の大痘瘡と1%以下の小痘瘡がある。最後の天然痘患者は小痘瘡である。

 

2002年総会では、2001年の同時多発テロや炭疽菌事件が考慮されて再び廃棄は延期された。2011年の総会で廃棄の問題が取り上げられたが、ワクチンや抗ウイルス剤開発に生きたウイルスが必要という意見が出されたため結論は2014年の総会まで持ち越されることになり、二つの委員会に廃棄の問題が諮問された。ひとつは、WHOの公衆衛生専門家委員会(AGIES: Advisory Group of Independent Experts)、もうひとつは天然痘ウイルスの研究を評価する諮問委員会(ACVVR: Advisory Committee on Variola Virus Research)である。ACVVRのメンバーは天然痘研究グループの代表者が主体で、米国のメンバーに偏っている。

2014年1 月のWHO執行理事会で、総会の議題についての検討が行われ、両諮問委員会の回答が紹介された。 AGIESは、ゲノム解析、診断法、ワクチンすべて終わっており、抗ウイルス剤の研究も十分に進んでいて、天然痘ウイルスは廃棄するべきという結論だった。一方、ACVVRは抗ウイルス剤の研究を終えるためには、天然痘ウイルスは必要と、保持を主張した。廃棄に賛成と反対という相異なる回答が寄せられたのである。執行理事会で廃棄に執拗に反対したのは、米国とロシアだった。日本もこれに同調した。即時廃棄を強く主張したのは中国とイランだった2

両諮問委員会での見解の相違は抗ウイルス剤の開発に関する点だった。ところが、米国は、新しい脅威として合成生物学の進展を主張した。2002年にポリオウイルスが化学合成されたことを引き合いに出し、天然痘ウイルスが化学合成された場合には壊滅的な影響があるという主張である。これにメキシコなど数カ国が同意し、天然痘ウイルスと合成生物学について検討する委員会の設立を提案した。その頃、天然痘ウイルス研究グループのPeter Jahrling (NIH) 3はランセット誌に、Inger Daimon (CDC)はプロスパソジェン誌にこれらの主張を発表していた4

5月24日の総会でも多くの加盟国はウイルスの漏出リスクを問題視したが、執行理事会と同様にコンセンサスが出ないまま、ふたたび廃棄は延期され、第三の専門委員会を設置して問題点をさらに調べることになった5 。この委員会では合成生物学の視点も取り上げるものと思われるが、詳細は不明である。合成生物学の脅威は、7500塩基対のもっとも単純な遺伝子構造のポリオウイルスの成果を19万塩基対という大型で複雑な遺伝子構造の天然痘ウイルスにつなげるという非現実的な問題の提起とみなせるが、どのような議論がこれから行われるのだろうか。

基礎的研究を重視する研究者グループと天然痘再発の際のリスクを重視する公衆衛生グループとの対立のようにも見えるが、実際には国家安全保障という政治的背景がかかわっているらしい。

テロリストの攻撃、実験事故、設備の故障、さらには忘れられたウイルスの漏出など、どのようなきっかけにせよ、天然痘が発生した際のリスク管理の重要な手段になるのは迅速診断法、ワクチンと抗ウイルス剤である。このうち、診断法はリアルタイムPCRなどを応用した遺伝子レベルでの診断が著しく進展している。そこで、ワクチンと抗ウイルス剤について眺めてみる。

 

ワクチンと抗ウイルス剤の現状

天然痘根絶に用いられたワクチンは、牛の皮膚で作ったもので、第一世代のワクチンと言われている。これには、全身性種痘疹、種痘後脳炎などの副作用があり、現在は用いることができない。第一世代ワクチンを細胞培養で製造したものが第二世代、さらに弱毒化したものが第三世代ワクチンと言われている6

第二世代ワクチンとして、米国ではACAM2000ワクチンが2007年に承認されている。第三世代ワクチンは、千葉県血清研究所の橋爪壮博士(現・千葉大学名誉教授)がウサギ腎臓細胞で継代弱毒化したLC16m8ワクチンが、日本で1976年に承認されている。2002年から2005年にかけてイラクでの平和活動に派遣された自衛隊員約3500名に接種されたことがある7 。もうひとつの第三世代ワクチンは、ミュンヘン大学のAnton Mayrが孵化鶏卵で弱毒化したMVAワクチンを細胞培養したImvanexワクチンで、EUが2013年に承認している。

世界における天然痘ワクチンの備蓄状況ははっきりしていない。ピッツバーグ大学バイオセキュリティセンター教授のDonald Henderson(元・WHO天然痘根絶計画のリーダー)を中心として安全保障問題に取り組んでいるグループが、2005年1月の時点で作成した表から、ある程度うかがい知ることができる8。全世界では6-7億ドーズ、総人口の約10%分が備蓄されていることになる。

抗ウイルス剤としては、シドフォビル(Cidofovir)とアレストビル(Arestvyr)が主に検討されている9 。シドフォビルは抗ヘルペス剤として承認された薬だが静脈注射で腎臓障害の副作用があるため、経口投与できるCMX001が開発され、動物実験で効果が調べられている。アレストビルは、ベンチャー企業のシガテクノロジー社が35万以上の化合物ライブラリーからハイスループットスクリーニング*で選び出したST-246(Tecovirimat)という化合物の商品名である。

*創薬のターゲット(この場合は、天然痘ウイルス)に活性を持つと考えられ化合物を自動ロボットで選抜する高処理手段。

 

抗ウイルス剤の効果を確認では動物モデルが課題になっている。天然痘にかかるのが人間だけのためである。主にマウスでのエクトロメリア(マウス痘)ウイルス感染とサルでのサル痘ウイルス感染のモデルが用いられていて、天然痘ウイルスの場合には、大量のウイルスのサルへの静脈注射が行われている。しかし、人の場合は微量のウイルスを吸い込む空気感染や患者の衣服などを介した接触感染であるため、人の天然痘モデルとは言いがたい。FDAは、抗ウイルス剤の正式承認に天然痘ウイルスを用いた試験を求めない方針を最近明らかにしており、アレストビルは緊急時での使用が承認されている。

オバマ政権は4億3300万ドル(433億円あまり)で170万ドーズを備蓄として購入する契約をシガテクノロジー社と2013年に結んでいる。

 

文献

1. 山内一也、三瀬勝利:忍び寄るバイオテロ。NHK出版、2003.

 

2. Smallpox: WHO executive board passes the buck to the World Health Assembly. Jan., 2014.           http://www.smallpoxbiosafety.org/EBJan2014.html

3. Jahrling, P.B. & Tomori, O.: Variola virus archives: a new approach. Lancet, 383, 1525-1526, 2014.

 

4. Damon, I.K., Damaso, C.R. & McFadden, G.: Are we there yet? The smallpox reseach agenda using variola virus. PLOS Pathog. 10, e10004108, 2014.

 

5. WHO postpones decision on destruction of smallpox stocks-again. Nature News Blog. May 28, 2014.

http://blogs.nature.com/news/2014/05/who-postpones-decision-on-destruction-of-smallpox-stocks-again.html

 

6. WHO: Review of smallpox vaccines. 2013.

http://www.who.int/immunization/sage/meetings/2013/november/2_Smallpox_vaccine_review_updated_11_10_13.pdf

 

7. 山内一也、三瀬勝利:ワクチン学。岩波書店、2014.

 

8. Atlantic Storm: Situation update. 2005.

http://www.upmchealthsecurity.org/our-work/events/2005_atlantic_storm/flash/pdf/update_1000.pdf

 

9. WHO: Scientific review of variola research, 1999-2010.

http://whqlibdoc.who.int/hq/2010/WHO_HSE_GAR_BDP_2010.3_eng.pdf